「てがみ」
文 夏萩しま 表紙 Aruzak-Nezon
薄い雲のかかった青いレターペーパーに、青いインクで書かれた固い小さな文字は、幼く頑なな心を表している。
飛び立ちたいのにその方法を知らない、心をそのまま表す言葉を知らない、構文のような丁寧な言葉。
わたしの想いは正しいのでしょうか
恋というよりは憧れのような、夢の続きのような想いを、どうやって捕まえて、どうやって見せれば良いの?と問うようなてがみ。
独り占めしたいのではない、自分の世界に時々通りかかって欲しい。
そっと待っている草花のような気持ちでいたかったあの頃の心。
茎も葉も硬いけれど、花びらは薄く透き通るように風の中にいる。
なすすべのない純粋。
正しいかどうかなんて意味がないのよ、思うまま生きなさい、と言ってあげたい。
今日の花は今日のうちにしぼんで、明日はまた明日の花がきっと咲くけれど心配です
降っても照ってもその恵みに感謝するような、幸せな気持ちだけを抱えていたかったあの頃。
好きだと想う自分自身を、好きだっただけ、詩のようなてがみ。
もうひとつの、「私へ」とした白い便箋は思い立って書いたような筆跡で、一息で書いている。
今は何年ですか?そこはどこ?
穏やかに暮らしていますか?ずっと行きたかったところがどこだったのか、やっとわかったって感じかな
どうやってそこへ行けたのか、本当のところ詳しくはわかってないでしょう?
いろんな人の厚意や、あり得ない偶然が、ちょうど似合うようにコーディネートされて、あれよあれよと運ばれたに違いない
自分の足では歩いてないね?
それまでの暮らしでとてもハードに心身を働かせていたから、きっともう自力で行かなくても導かれて行けたんだろうと、思います
途中の景色を楽しむこともなく、慣れない言葉で頼むこともなく、ただ微笑んでいたら、周りの人が嬉しそうに手を差し出してみんなして担ぎ上げて、走って届けてくれた、そんな様子が浮かびます
何をしていたらいいのか手掛かりがないまま、毎日をひたすら生きるために生きていた、無駄とも思える長い時間が、案外、功徳を積んでいたと例えばそう言えるのかもしれない
頼りなく一人座っているときにも、気配は何かしらあったと思うけれど、それに気づけるほどにはまだ今は修行が足りない感じね
イメージではとてもとても遠いそこへ私は行けているのですね?
まだまだ予感はありませんが、希望はいつも持っています
そこから5年前に、私はそこへいく道を歩いて近づいているということですね?
本当に奇跡のようにしか思えないけれど、そのときに確信を持って歩いているのだろうか
辿り着けると知らないままで、変わらず迷いながら、苦しくて、それでも希望を捨てずに進んでいるのでしょうか
明日の私は、座って目の前のことをしていますよ
急に何かが変わることは無さそう
私の外が崩れて消えて、私の中が熟成するまで、あとどれくらい時間があるでしょう
そこへ行けるということは決まっている、と信じていて良いでしょうか?
この手紙を読んでいるのが私でありますように
こうして、てがみは2通とも今、手元にある。残酷にも思えるが、こんな自分本位なことを書いていたのだ。背伸びして、大人ぶって、痛々しい子供だった、それだからこそ、夢中で心が走っていた。あの頃のことを今、思い出すことがきっと、これからの生き方に関わってくるのだろう。
私はてがみを、捨てずにまたそっとその辺りの本に挟む。特に理由がない場所なので、きっとすぐに忘れて、また先で不意に見つけるだろう。それはまた、そのときの自分にとって必要な言葉を発して、今とはまた違う何かを思うのだ。