月毎よむよむ

月毎の、お話と絵本

4月 樹下 

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「樹下」 文・表紙 夏萩しま

 


   市場にて


 夜が明けきらぬ前から生き生きと動き出した市場の賑わいの中に、彼女を見かけたのは陽炎の立つ頃だった。明るい記号が波打つような野菜の前で、値段の交渉をする短い会話をやり取りしていた。それが、若い頃の声を耳にした最後の記憶になろうとは、そのときは気付くすべも無い。

 ファインダー越しの彼女は、いつも野生動物のようだ。慎重に様子を見ていることもあれば、全力で迫ることもある。瞬時に勘を働かせて、相応しい姿勢をとる。この空気の中でしか見せない直感的な動きなのだろうと思われた。それが彼女の本来の顔なのか、見えていると思った現象に過ぎないのか、なぜか不安感も同時に感じさせるのだった。幾度か捉えた自然な素振りも、カメラを意識しない表情も、そうして積み上げたイメージが果たして本物の姿だったのか、疑えば果てしなく答えは捕まらない。今となってはもう分かりようも無い。ただ、カメラを通して、あのとき同じ場所にいたということが確かなことで、実はそれだけで充分なのかもしれないと、ふと思うことがある。自分が写真に残せるものとその意味について、あの日から思考が変質し始めたのは偶然ではないからだ。

 

 

 

 

    樹下   

 

ブーゲンビレアの赤いところは、葉っぱのようなガクで
その乾いた擦れ合う音がさらさらと南風に鳴っている、その下へ
強すぎる陽射しから逃れ入ると
ひとつしかないテーブルに
ひとつしかないメニュー、パパイヤのてんこ盛りを注文する

ぬるい風は軒下も通る
ほどなく少女がプレートを持ってくる
両手をいっぱいに広げた少女の顔は
オレンジ色のパパイヤの果肉に埋もれたまま
真っ直ぐにテーブルまでやってきて
手慣れた風に置いたら
さっさと行ってしまう

きゅと搾ると
ぱっさぱさのさのうが
切り口から棘のように飛び出し
一滴も滴らないライムを
なぜか格好だけパパイヤに回しかける

心持ち白っぽい常温の果肉は
まだ若い控えめな甘さと
強い香り、そしてえぐみ
パパイヤの生命力を感じる

けっこうな量を無心で食べた
気がつくと満腹感で安心した
南風はブーゲンビレアを鳴らしている

少し眠ったような感じがしたが
少し寝て覚めたくらいでは
何も変わっていない
午後の風が黄色い砂埃をたてる
同じ風がブーゲンビレアを鳴らす
永遠にそのままのような昼

どれくらい眠ったか
今日のうちに目覚めたのか
という軽い不安が湧きそうになって
すぐにどうでもよくなった

起きたら起きたとこから始まる
生まれた日から人生は始まる
それでいいのじゃないか
今を
これからを
良く生きるなら

またこうして
ブーゲンビレアを見つけて
その下で人心地つけば大丈夫

この空気がそれで良いと言っている

 

 

 

 

 

    パガンへ

 

 手に持ったペットボトルの水があまり残っていないことから、飲み水を貰うためにツーリストバーマへ向かっているのだろうとわかった。案内カウンターで国内便のチケットを頼み、発券までの間に入口近くの給水器からペットボトルに水を補充していた。路線バスででも出かけるように身軽な様子だ。
  空調の効いた建物から出ると、生温い湿度がこんなにも酷かったかというように彼女の動きをちょっと止める。しかし一瞬だ。通りの反対側に渡り、国内線の空港を目指す。白タクの調子のいいチョビ髭の男に、先ほどの案内嬢から教えられた金額を示すと、一瞬嫌そうな顔をしたが、鶏のように何度も何度もうなづいてハンドルを握り、今度は左右に首を振りながら発進した。運賃が安すぎたせいかどうかわからないが、日本産の中古車は縦に激しく跳ねながら走った。そしてあっという間に国内線搭乗口へ乗り付けた。
    明るく広がる滑走路の端は陽炎のような熱帯樹林にどこまでも囲まれていた。どんな動物がいつ飛び出して来ても不思議ではない、本当に囲まれてしまっているのは人間の方だとしか思えない。彼女はそれを恐れる様子もなく搭乗し、狭いが小綺麗な機内でシートを見つけると、水を顔からかけて拭い、スニーカーを脱いで足を拭いた。
うーーるるるる、と上がってくるエンジン音を聞きながら、ふうー、と息を吐いて次の町までの少しの間、目を閉じる。安定したエンジン音、短い滑走路ですぐさま機首を上げて飛ぶ、日常使いに向いている快適な飛行機だと言われている通りだ。


 眠るまもなくパガンに到着して、束ね髪の彼女は、バスから降りるように一番下のタラップから飛び降りた。寺の町だ、素足になって歩き始める。すぐ横に白いこぶ牛が角をこちらに向けて、つまりこちらを見ながら同じ速さで歩いている。牛を引いているのは4歳くらいの少女で、元は白色だったであろう布を片肩から掛け、裸足でやはり同じ速さで歩いている。「アロ!コマンタヴェヴ?」観光ズレしているが、逞しいその少女は、彼女に通じるまで各国の挨拶を繰り出し続けた。彼女はわざと黙ったまま面白そうに聴いていた。

 寺の入り口でさっきの少女にお布施というべきなのかいくらかを渡して、専用のスカーフを受け取り首にかける。鬱金で染めたそれはなんとも言えない深みのある黄色とも橙色ともつかない力強い色味で、さも身を清める力がありそうな染め布だ。手軽に観光してもらおうというよりも、誰でもいつでもこれさえかければウェルカムなのだよ、とおおらかに迎えてくれるこの土地の包容力を感じる。冷たい石の階段を上がり暗い石室に入ると、いきなり圧倒的な大きさの仏像が立ちはだかる。少しゆったりとした微笑みは、南方系のぽってりとした柔らかさで、いつまでも下方をじっと見つめている。永遠という言葉が浮かぶ。いつかしら時間がわからなくなるような、もう委ねてしまいたいという心地にさせるほどの静かな時間だった。作法などわからなくても自然に手を合わせ目を閉じて首を垂れてしまう。彼女は何かを祈るためにここへ来たのだろうか、長くそうしていた。

 入ってきたところから出てくると、さっきのところでスカーフを返却する。少女は右手を差し出してスカーフを受け取りながら、左手で何かの瓶を勧めている。中身は何かわからないがまあいいか、という感じで小銭を払って、明らかにゆるい栓を抜いてもらう。微炭酸のシュ、という気配だけがして、腐敗発酵を始めたばかりのような臭さ。試されているような場面だ。彼女は一気にゴクゴクと飲んだ。みかんを搾って日向に数日置いたような、口に入れるものとしてはギリギリだが意外と喉越しは良かった、という風な面持ちでいる。空瓶を返すとき、ちょっと胃の上がゴボゴボいっていたようだが、ここまでがお布施なのだろう。
 少し歩いて振り向くと、さっきの瓶をタライの水で洗って、横のバケツから何かをすくって瓶に入れると、足元から拾った栓を載せて叩いていた。
「あの何かを飲んだのだな」
ということがかえって愉快にさせたらしい。彼女が足元の白い土を素足で混ぜながら笑っていて、なぜか白いコブ牛の背中の色を思い出した。

 

 緩やかに夕方が始まっていた。さっきの働き者の少女も寺の長い影の中に隠れていた。遠くにも近くにも寺が無数にあり、みなそれぞれ無数の長い影を連れて太陽が沈む方向へ進んでいるように見える。パガン、寺の町、どこまでも寺だけが点在していて、寺と寺の間の白い土も今は鬱金に染まっていた。

 

 

 

 

    夜茶会

 

アツイデスネー
夜になってから庭に出された椅子
恒例らしいお茶会に案内される
ヤカンに出来立ての熱いコガシ茶と
皿に盛った炒り豆と
元気を取り戻した虫たちのざわめき
じっとりとした亜熱帯の夜
空気は液体のまま動かない

 

アツイデスネー
通じる言語も共通の話題も
ほとんどない静かなテーブル
笑顔ですすめられるまま
笑顔で熱いお茶を飲み
炒った豆をガリガリ言わせながら
流し込むために熱いお茶を飲み
空いたお椀にはまた
笑顔で熱いお茶が注がれる

 

アツイデスネー
滲み出る汗が浮かんだ顔を
互いに眺めながら
なんとなくにやにやしなから
お茶会は終わらない

 


ふと
微風を感じた
和んだ肌に乗ったままの汗が
少しだけ熱を奪って乾いてゆく
しっとりとした草の気配
足についた土がさらさらと落ちてゆく

 


アツイデスネー
熱いお茶が注がれた
煎りたての熱い豆が運ばれてきた
さすがにお腹もいっぱいで
冴えてしまった頭がしんとしていた
多分深夜だ

 

星と星がひしめき合う空を見ていると
何か説明してくれたらしいが
曖昧に笑って
お茶を飲んだ

 

アツイデスネー
また熱い茶が注がれた
豆を煎る香りが
小屋の前から来ているのがわかった
そこから新しい煎りたての豆が
運ばれて来る


アツイデスネー
お茶を飲み干しながら
あの、ご馳走様でした
と言ってみた
目の前の豆をつかめるだけつかんで
ありがとうございました
と過去形で言って笑顔を作った


アア、オヤスミナサイネ
あっさりと解放される
煎りたての豆が
また並べられたテーブルに向かって
おやすみなさい
と言って部屋に帰った

 

 

いつのまにか明るくなっている
ぐっすり眠って目が覚めた
お腹はまだ親切な豆でぱんぱんで
今すぐ散歩にでも行けそうなほど
水分も足りていた 

暑さをやり過ごす習慣を
私は気に入った

 

 

 

 

 


    ブーゲンビレア


 彼女のロンジーは赤紫色の生地にオレンジと薄ピンクと銀糸の横縞模様が足首まで慎ましく並んでいる。ラングーンの市場で手早く仕立ててもらったものはやはり観光向けだった。この町で個人から買ったこのロンジーは布目も詰まっていて色も美しい。買ってくれたお礼にと丁寧に彫った木の櫛を渡された。でこぼこに溜まった雨水をぴょんぴょんと跳びながら歩いたが、今はもう雨は上がっていた。朝、水浴びしたせいで少し癖の出ているセミロングの黒髪も、バサバサッと振るとほぼ乾く髪質で、犬の仕草のように潔い。
 屋根の下に少年がいて、四角いブリキの枠の中に小さいスケートリンク状態のものがある。近づくと、
ツメタイヨ
と笑う。竹を細く割ってから崖のようなところに刺してこんこんと叩き込んで、周りを四角に割り分けると、シンプルな棒付きアイスになった。大きさ形は手加減なので値段も怪しいが、何かの果汁の香りと、何かの果汁の味がする。そのまま軒先で食べ終えて、竹の楊枝を指先で振っていると、下に向けて手を開く仕草をしてみせた。真似をして下に向けて手を広げると竹の楊枝は足元に落ちた。気がつくと足元に結構落ちていた。少年はまた笑った。これは串カツと同じだな、と連想して可笑しかった。
 新しい出来立てのロンジーを巻いて楽しそうに過ごす姿は、ここの気候と合っているということだろう。雨季が終わる頃、空は明るい。

 


 見上げたブーゲンビレアの梢が、あまりにもロンジーと同じ色だったので、シャッターチャンスを逃したくなかった。
「木の下に立って」
声をかけると、彼女は上を向いて顔をしかめた。乾いた土の感触を楽しんでいるような素足だった。

「パガンは気に入った?」
彼女はゆっくりと木の下へ歩いてゆき、強い日射しのせいで少し潤んだ瞳を閉じた。静かに風を受けながら、ブーゲンビレアの葉の音を浴びている。微かに浮かべた笑みは慈愛に満ちた仏像を思わせた。

 


 眩しそうな表情で残った写真を、オフィスの書棚に立てている。雨季が突然に明けるあの空の印象と重なって、若かった彼女を今も時々思い出す。日本にはいろいろな名前で雨の季節がある。