月毎よむよむ

月毎の、お話と絵本

5月 小さい海と大きな水

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「小さい海と大きな水」
 文・表紙 夏萩しま


桐乃さんはおじいさんみたいだけど、姿勢が良くて力持ち。いつものパッカンに野菜や魚や肉の塊を入れて、トラックの荷台から台所に何往復も運ぶ。
「おはよう、いつもありがとう
あらいい野菜ね!ご苦労様でした」
割烹着のカズラさんは楽しそうに、食材ひとつずつと目を合わせるように眺めてから、冷蔵庫や土間の決まった棚に入れていく。
ヤカンのお湯はピーピー沸騰していて、ぼくがコーヒー豆をゴリゴリゴリラ、ゴリゴリラとすり潰すとすぐにいい香りがしてくる。
庭を見ながら縁側に回って腰を下ろした桐乃さんは、頭のタオルをほどいた。
カズラさんは、ぼくのカップにミルクをたっぷりとコーヒーを少し足して、台所のテーブルに置くと
「ありがとう、今日もいい香りね美味しそう」
カップの中を覗いた。
2杯よりは多めのコーヒーが入ったポットを持って縁側へ出て、2つのカップに同じくらい注ぐと、残りはお盆に置いて自分も座る。
少し日差しが入る縁側で、野菜や魚の話から、季節の話になって、「次は葡萄パンを焼いておくわね」と話しかける。
桐乃さんは口の端が美味しそうな感じに、にゅっと上がってそのまま空を見上げて眩しそうにしばらくそうしていた。
コーヒーのおかわりを、それぞれに注いで先に飲み干すと、カズラさんは背中を伸ばして庭を見回した。
立葵がぐんぐん伸びてきて、次の季節の準備をしているのを毎年気にしている。
桐乃さんもいつのまにか同じ立葵を見ていた。
「ジャアネ、マタ来マス」
といって立ち上がり、廊下の奥のピアノに座っていたぼくにも同じように
「ジャアネ、マタ来マス」
と言って手を振った。

次に桐乃さんが来たときに、食材をいつものように台所へ運ぶと、軽トラから縁側の端の方へ、大きな壺?と、水の入ったバケツを持ってきた。
「音々〜手伝ッテクダサイ」
と呼ばれて庭に出た。バケツを見ると、すぃーと動いている。
「あ、メダカ!」
桐乃さんは地面を少し掘って壺?を置くと、裏口から井戸水を引いてきて中に水を入れ始めた。
「ココニ瓶ヲ置イタラ、半分日向デ半分日陰デス」
そう言って縁の近くまでで水を止めると、バケツの水を注ぎ始めた。
中のメダカが一緒に入らないようにそっと注いでバケツを置く。「半分半分かめ?かめ?」
と頭の中でリズムが繋がり始めていた。音々の頭はいつもこんなだ。
「これってカメ?かめ?」
「カメジャナクテ、カメノホウ」
桐乃さんのニュアンスはなぜかすぐにわかったから、カメカメカメ〜とハミングしながら、バケツの中のメダカを、そっとそっと大きな瓶に移すのをやらせてもらった。
水に慣れるのにしばらくかかるのかなあ、水草があったら家らしくていいかなとちょっと思っただけなのに、桐乃さんが
「今度、小石ト水草モ持ッテキマショウ」
とウインクした。
二人でメダカを数えながら、しばらくしゃがんでいた。メダカは辺りを調べるようにツンツンと泳いだ。カズラさんも来てちょっと覗き込んだ。
「また家族が増えたね」
持っていた紙袋から流れてきたあったかい匂いが、あたりを包んだ。
「はい、ご苦労様、お土産」
と言って桐乃さんに渡す。
袋をくんくんくんとしてから
「葡萄パン!アリガトウ」
と言って袋を開けて鼻を突っ込んだら耳がぴくぴく動くから、犬みたい。


桐乃さんが白い小石を沈めている間、バケツに避難させたメダカを手ですくったり、水をかけたりしていた。
水草の下の方は束ねて重石が付いている、瓶に入れるとすっと立ったまま降りていって静かに止まった。
最初のときと同じように、そっとそっとメダカを瓶に移した。
「小サイ生キ物ニ触レルノハイイコトデス、大キイ生キ物モネ」
そう言って桐乃さんは微笑んだまま空を見上げて、また眩しそうにしばらくそうしていた。
「空の中に何が見えるの?」
音々は同じように目を細めて空を見ながら聞いた。
「雫カナア、、、イロンナノガイッパイ、ソレガ心ニタマルンデス」
「それって海ってこと?」
「アア、ソウデスネ、心ノ中ニ海ガアル」
なぜだか知らないけど、小さくても大きい海を桐乃さんはずっとずっと持っているんだ。そう音々は納得した。

桐乃さんが帰ってから、音々はまたメダカを覗き込んだ。
背中がすいーっと繋がっている。
メダカにとっては広い水瓶だけど、もっと広い大海原に出たらびっくりするだろうなと、メダカと一緒に浮かんでどこまでも泳いでいくところを思い浮かべた。水の泡がこぽこぽと繋がって、頭の中に新しいメロディが流れ始めた。
音々は、裏に回って手を洗うと四足歩行で廊下の端のピアノに向かった。冷たい床の板の上に、小さな水たまりが点々と後をついてきた。椅子によじ登ると鍵盤に顎を乗せて目を閉じる。
日差しはもう西寄りになって裏の木戸から入り、音々の垂れ下がった両手の指から滴った水たまりを斜めに照らしていた。