月毎よむよむ

月毎の、お話と絵本

4月 Nord station

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「Nord station」
 文/夏萩しま    表紙/Aruzak-Nezon

 


ロンドンを出て、真夜中のドーバーを渡っている頃までは、これから始まる旅程に気持ちが昂っていたのだが、鞄に隠し持ったアイリッシュミストの瓶に口をつけながら周りの人を眺めていたり、少しだけ聞き取れるスコットランド人とロンドンっ子の訛り合いが捩れに捩れて聞き取れるようになってきたあたりから、少し飽きてきて睡魔と戦っていた。甲板に出て頭を覚まそうと思ったのだが、船を囲んでいたのは空も海も切れ目なく繋がった黒いカプセルのようで何も見えない。ときおり波が手すりを超えて洗い流すのを仕方なく見つめながら、上も下ももう怪しくなってしまって定期的には来ない波にひたすら弄ばれていた。こんなにも暗く黒い世界を初めて見る。波の端が船内から漏れる灯りで白っぽい灰色に浮かび上がるだけだ。時間の感覚も無くなるようなこんな海峡を進みながら、どうやって実感を持てば良いのか。「国境を越えるので」とパスポートをチェックされることで唯一ここらあたりがどの辺なのか想像できたのだった。
そのうち、いつ止まったのかもはっきりしないまま、ただ隣の部屋へ移るように言われたくらいの軽さで、人波に混じって列車に乗り換える。鉄道になってからもしばらくは真っ暗闇の中をほとんど揺れもせず運ばれていた。座っているのに疲れてきたので、デッキへ行ってみると同じように退屈した人たちが腰を伸ばしていた。そこも混んでいたのですぐに席に戻り、鞄を抱えて窓に頭を付けていた。
少しずつ街の明かりが見え始め、相当なスピードで走っていたことがわかった。それで安定していたのかと納得して、これならもうすぐ駅に着くだろうと思い、また鞄を胸に抱いてぼんやりしていた。
街は暗い中にも明かりが増え、看板やイルミネーションが目立ち始める、そろそろ市街地に入ったらしい。空も中天の深い藍色に比べると、地平に近いところは少し黄色みを帯びている。夜明けにはまだ早いが朝が近いことはわかった。


ノール駅構内へ列車がゆっくりと入り始めた。天蓋が明るくて急に光りの中へ包まれながら迎え入れられてゆくようだ。それでもまだ薄暗いのだが、色々なものがよく見え始めた。みんな荷物を持って降りる支度をしている。少し遅れたが、まあいいとして最後の方にくっついてゆく。開いたドアの近くからひんやりとした空気が入ってきていた。まだ早春の頃、昼間ほどは気温が上がっていない。初めてのホームに降りると、じん、とする固い冷たさがつま先から上がってきた。昨日、長距離列車に乗ってから10時間は経っていた。ほぼ時刻表通りだが、予想よりも早く到着したような体感だった。乗客はいくつかのグループに分かれて進んでいく。みんなの行く先は、明け方から開いているカフェだ。私はその前に両替えをしなければならないので、少し逸れて「EXCHANGE」の表示のあるカウンターへ行く 金額とサイン記入したトラベラーズチェックとパスポートを回転式のトレーに乗せてガラス窓の向こうへ回して出す。相手の方が慣れているので手続きは簡単だ、「スモールチェンジ、OK?」と英語ですがるような笑顔を作ると、「言っても無駄だわね」という雰囲気でパスポートをチラッと見ただけで済ませてくれる。おかげで、すぐにでもカフェで使える小銭を含めて、生活しながらそのうち細かくなってしまうであろう紙幣を受け取ることができる。「メルシボク」お礼だけはフランス語で丁寧に。係の女性は一瞬の作り笑顔で応えてもう次の旅行者への対応にかかっている。
さて、カフェだ。初めの店は早々に満席になってしまったので、その先のカフェを目指す。列車が着くたびに満席になるのだろうから、人数分は空いているだろう。次の列車が着くまでに席を開ければいいのだ。ゆっくりと朝ごはんを食べよう。4時12分。次の店で座れた。駅を出ても他の店はどこもまだ開いていないだろう。ここもすぐに満席になる。ざわざわとざわめきが広がり、店内のあちこちで一斉に人が喋っている。食器の触れ合う音はカチャカチャと意外なくらいよく通る。混じった音がひとつのリズムとなって大きなうねりになり、何か揺さぶられるような感覚を覚える。店の外はまだ夜で暗い駅構内なのに、店の中はすっかり活気付いた朝の賑わいで照明のチラチラと眩しい様子も生きているように見えてくる。
銀盆を指に吸い付くように自在にのせたギャルソンが近くを通りかかった。新しく座った客に対する反応がものすごく早い。クロワッサンを山積みにしているので、指を一本立ててから指さす。彼はシャッと手品のようにポケットから抜き出した紙ナフキンでクロワッサンをひとつ掴み、華麗な手さばきで私の前に置く。値段を言ったらしいが、わからなかった。パルドン?とか言ってもまたわからないかもしれないので、それよりも支払いしようと、だいたいの小銭を銀盆の端へ置いた。彼は慈悲深い笑みを浮かべ多過ぎたコインを返してくれた。「カフェ・オ・レ、スィルヴプレ」と注文をすると、ゆったりとした笑顔で承諾してくれた。ほんとうにすぐに熱いカフェオレが届いて、今度は彼の言った値段が聞き取れたと思ったのでちょうどの小銭を銀盆に乗せると、学校の先生が生徒を褒めるときのように笑顔でうなづいた。
とりあえず食べておこうというつもりだったのだが、緊張していたのが解けてきたらしく、バターの甘い香りにお腹がぐう、と鳴った。たっぷりのカフェオレが体を温めて、今やっと目が覚めたような気分になった。
乗り物の揺れが体に残っていたせいかもしれない、少しふわふわするような頼りないような気分だった。何が起きるかわからないわくわくと自分の力でやっていくんだというどきどきが、春先の冷たくて少しふわっとする空気感と一致している。怖いものはない。ただ怖いものを知らないだけなのだが、今はこのままでいい。できるだけ考え過ぎないように、心の向かう方へ行ってみたいのだ。きっと今ならできる、いや今しかできない。


駅の出口で街を見渡す。私はパリの街へ北の方から踏み入れる。ロンドンで過ごした日々が少し自信を与えてくれていた。捩じ込んだ紙幣をポケットの上から押さえて、最初にまず今日寝る場所を決めようと思った。宿泊費はできるだけ安く、そして美味しいものを食べよう、ワインを一本買ってこの街にいる間に少しずつ飲もう、とイメージを膨らませていった。