月毎よむよむ

月毎の、お話と絵本

6月 梔子

 

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「梔子」 文/ 夏萩しま 表紙/ Aruzak-Nezon

 

 

シャシーに緑の葉から反射したパープル系のグラデーションを載せて、滑らかに運んだ風をゆっくりと減速させる

あの端っこに着けますよ、とおどけて言った通りに、公園の階段の端へぴったりと車を寄せるのが見えた
丁寧な運転をすると知っているから、止まり方で来たことがわかった

私の日傘をさしてパンの袋を下げて、ふわっと軽い足取りで日向に出ながら
ここで待ってて、と言われたベンチは
絶えず枝が揺れている木の下で、土手を駆け上ってくる川風が次々と通る
とても涼しい空気の入れ替わりの中で心地よく座っていた
今日はもう送っていこう、そう言われた梢枝の先は、梅雨の中休みらしい空が眩しく広がっていた

あ、来た、と気づいてすぐ立ち上がった
できるだけなんでも無さそうに、できるだけまっすぐにゆっくりと歩いていった

梔子の白く透き通った香りを一輪、乗る前に公園の角で摘んだ
そっとアームレストの上に置くと水滴がゆっくりと落ちた
ふたりのちょうど真ん中から、一輪とは思えない程の豊かな香りが流れ出る

よく冷えたサイドシート
さっきはずしたばかりの私のストールがきちんと畳まれていた
路肩に半分乗り上げているボディはよく伸びた公園の木立の中にすっぽりと入っている
いつもより車内は暗く海の底を思った
今日はまだ会ったばかりなのに、私がちょっと具合が悪くなった
当然のように車を回してくれた、その迷いのない優しさにじんとくる

こんなのもいいね、感謝を込めて言った
こんなのもいいよ、少し外を見て右ウインカーを出す
ゆっくり微笑むのと同じ速さで車は動き始める
私はひんやりした温かさと甘く透き通った香りに深く包まれていった
安心してシートにもたれ、キラキラと木漏れ日が流れてゆく瞳を見ていた


今日どうしても今日だったのは、もう髭を剃らなければならないから、その前に見せたかったのと、パンをどうしても一緒に食べたかったから、なのだそう
こざっぱりと髭をあたったら、顎の先に
間の抜けた傷があるのを知っている
それが鋭すぎる風貌を和らげているのを私は好ましく思っている
けれども本人としては、うっすらと隠しておきたいらしい

髪も短くして入隊するのはもう来月
名残惜しい髭にその日初めてそっと触れた
それからぴょんぴょんと弾くように髭の弾力を確かめていると
くすぐったいのが我慢できなくなって
ぶふふっと鼻を鳴らすものだから二人して笑った
こんな小さすぎる事件は二人のお気に入りで、数限りない共有してることがだからとても増える

ありがとう、今日はもう何度言い合っただろう
ありがとう、教えてもらった言葉が私を変えていってる
ありがとうと言いたい相手、ありがとうと思ってしまう人と過ごすことが、ありがとうを増やしてゆく
あと何回、ありがとうを交換できるのかわからないけれど、最後の言葉もきっとありがとうだろう

梅雨の中休みはすぐに過ぎた
帰り道はリアウインドゥを叩く雨音に追いたてられてしまった
私は言いそびれた入院のことをそのままにして微笑んでいた

 


ダッシュボードの蓋を開けるとひんやり感じた
思いがけず、冷たい陶器のように白く硬くなった梔子の花が、ころんと出てきた
発表会のブローチが特別な日を表すように、それは生花の表情のまま乾いていた
どんな加減で枯れることも無くこんなに瑞々しく美しく乾いたのか、不思議だった
あの日、二人のちょうど真ん中に静かに強く香った梔子は、二人の話をずっと聞いていたはずだ
こうして永遠のような姿になって、この白い花びらにはあの言葉が長く閉じ込められていたのだろう
今、空気に触れて緩やかに溶け出す
ありがとう
ありがとう
ありがとう
ありがとう
この気配が消えてしまわないうちに、坂道を走らせて届けに行こう
できたら、まずは助手席に座って深呼吸して欲しい
そのとき何て言うだろう、やっぱり
ありがとう、かな
空は雨雲が重なって震えている
公園沿いの生垣には新しい梔子の花が白い星のように連なり、星座を描いている