月毎よむよむ

月毎の、お話と絵本

6月 ハイドランジア

 

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「ハイドランジア」

   文/ 夏萩しま    表紙/ Aruzak-Nezon

 


静かにまた降り始めて
この時期、雨はガクの奥までを
すっかり濡らす
垣根の端でさりげなくちぎった
白でも緑でもない
晴れれば色彩が変わる
その花びらのような一枚一枚は
少しだけ厚みがあり
前歯で噛むと微かに痺れる
誰も見ていない傘の中で
スッとする香りと苦味を味わう
雨脚が強まり、この小さな秘密を包む
紫陽花の甘い香りはとても淡い
雨粒の乗った花を求め
ガクの真ん中に
その花鞠の中へと顔を埋めて
水に溶けた香りを追う
雨の間、ずっと効いて
軽い目眩が続くように
痺れる毒の味を追う
息を足しながら深く深く
水の底まで潜るように
深く、深く



七生は、いつも一人で帰る。白くすべらかな頬は、いつも何の感情も表さない。少し青みがかった瞳は湖のように静かだ。学年が変わるときに転入して来て、いつのまにかクラスの中にいた。休み時間は本を読んでいることが多い。そうでないときは、校内のどこかにきっとひとりで居る。梅雨の終わり頃の激しい雨の日も、長靴を履いて傘をさしてまっすぐにゆっくり歩いている。雨足が強まり雷が鳴って、クラスの女子などはきゃーきゃー言っていたが、七生は静かに座っていた。誰も声をかけないから、声をかけそびれている。でも何を話したらいいのかわからない。七生は何を考えているのだろう。いつも何を見ているのだろう。

そろそろ一学期も終わろうという頃、初めて少しの発見があった。七生の鞄の外ポケットに小さな白い何かが挟まっていて、雫が落ちていた。鞄全体がぐっしょりと濡れていたが気にしている風でもなく、いつもと変わらない様子で前を向いて座っていた。クラスのみんなも無視しているのでもなく、ただ声をかけそびれているような空気で、七生も特に嫌そうにもしていない。相変わらずの雨の毎日に、初めて少しだけきっかけができたような発見だった。
下校の頃になるといつのまにかあの白い何かは無くなっていた。なぜかそれが大事なことのように感じて、なんとなく今日は七生について帰ってみようと思った。
白いシャツに雫が落ちて少し透けたような跡がいくつもついて、それでもなんでもなさそうに歩いてゆく。その肩が急に振り向かないように注意深く見ながら歩く。自分の傘に隠れて、ゆっくりと離れて歩いた。七生は通学路を逸れて、古民家の連なる細い道へ曲がっていった。そこは深く水に沈んだように緑が茂る道だった。他の季節には気づかなかったが、家の生垣には紫陽花が何種類も植えられ、垣そのものはすっかり埋もれている。紫陽花は家々を繋ぐように長く続き、赤、青、ピンク、薄緑、水色、白、紫と大きさも様々に並んでいた。
七生は傘ごとお辞儀をするように紫陽花を見ている。その度に肩に掛けた通学鞄が傘から出ている。見ながら少しずつ移動していって、どの花にもみんなに声をかけるように時間をかけて進む。傘が少し揺れたとき、七生の横顔がちらりと見えた。微笑んでいた。あんなにも何かを感じて顔に出すのかと思うほど柔らかい顔だった。急に、七生の秘密を見てしまったようで、ざわざわとした。そしてそこからはどうしても進めずに早足で引き返した。あの鞄の白い何かは紫陽花だ、紫陽花だ、とそう言葉が追ってくるようで不安になる。雨足が強くなった。

翌日から七生は続けて休んだ。ようやく梅雨が明けてすぐに夏休みになり、それきり見かけることは無くなった。
大きな虹が立つほどの雷雨のあと、蝉時雨を浴びながら、あの道を曲がってみた。古民家の生垣の紫陽花は葉ばかりが固く伸びて、少し前のことなのに、ぼんやりと煙ったような色彩は見えなくなっていた。葉が風に煽られ眩しすぎる光が飜る。緑の苦いような匂いが熱い空気となって顔に当たる。あの日の雨の音を思い出そうとしたが浮かんでこなかった。それなのにあの静かな横顔が鮮やかに忘れられなかった。壊さなくてよかったと、そう思った。そして安心した。僕にとって彼は一瞬の永遠で、そしてそれ以外何も知らない。