月毎よむよむ

月毎の、お話と絵本

5月 立夏〜コードネーム〜

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立夏〜コードネーム〜」
 文・表紙 夏萩しま

 

 ホワイトデニムのカットパンツ、マリン調のデッキシューズでアクセルを踏み込む。いつものグレーのスラックス姿とは、ずっと離れた服装にしてみた。早く到着したくて、ついつい、おしゃべりになっているみたいだ。
 安定したミッドシップは静かに進む。外の音はほとんど気にならない。懐かしい女性ポーカルが歌う声は弾けるように明るくクリアーに響く。はしゃいだときのカズラに少し似ているかもしれない。
 何年もかけて、やっと今日を迎えた。準備の間も全てがエキサイティングで、予定よりも少し長く楽しんでしまったけれど、やはり時は満ちてちょうどのタイミングになる。初夏を過ぎ、気温が上がり始めたばかりのこの時期が、夏の暑さにはへばってしまうカズラにも理想的。みんなも心配しなくてすむ。「梅雨時計」がまだ蕾さえつけないうちに、夏を先取りするのだ。
「水着は持ってきた?」
「なんでこんなとこまで来て確認するかなあ、忘れてたらどうするつもり?あなたのをもらうわよ?」
「構わないけど、、足りるかな?くっくっ」
「水着だけしか持ってきてませんっ!」
「でしょうとも」
前のいろいろなことを思い出して、自然と笑顔になる。そう、カズラはそういう人だ。初めから。

 やっと高速を降りて枝道へ入ると、光の中で揺れる島々が現れた。眩しくて瞬きを2度した。
ザザザッ。車が止まると、曲の途中で歌声は途切れた。荒い砂粒が浮いた駐車スペースに後輪を食い込ませ、全てのドアを開け放った。暖かい潮の香りに一気に囲まれる。車内の空調には気をつけていたので、温度差でくらくらするかもしれない、大丈夫か、大丈夫そうだな。カズラはすでに海岸の近さに目を奪われている、おでこがテカテカだ。
 中くらいのトランクを2個重ねてエントランスに向かう。植え込みが作る木漏れ日の永遠に続く縞模様を、マルチェーの背中がくぐっていく。設計通りのピザ窯とBBQスタンドが、中庭を囲む梁の下に充分なスペースで並んでいる。海が真っ直ぐに見え、雨宿りもできる。楽器を置くのにもぴったりだ。
 銀に縁取られた紺色の鍵を手渡されたカズラは、一瞬呼吸を止めて、そっと鍵穴へ差し込み右へ回した。くんっ、という柔らかい音と共に、思ったよりも軽くドアが開いた。弾かれたように中へ入り、次々と窓を開けてゆく。木立の緑と混じるように、部屋のカーテンと観葉植物がざわめき始めて、外と中が同じ空気に変わった。

 カズラが床を拭いている間、マルチェーは小さな水色のプールの底の小枝を取り除き、さっそく水を張り始めていた。「さすがわかっていらっしゃる」カズラは思わず小さく笑った。プールから跳ね返るしずくが、キラキラしている。その光が瞳の中で踊った。

「コーヒー、淹れようか」と一声かけておいてカズラは湯を沸かし始める。日の当たる方の椅子に、マルチェーが先に来て座った。コーヒーを持ってきたカズラは、空いている木の下の椅子に掛ける。だんだん満ちてくるプールを眺めながら、こっくりとしたドイトンを一口味わい、コーヒーカップの中へ向けて呟く。
「思った以上」
「もっと早く、来たかった?」マルチェーはまつ毛を伏せた。
「いいえ、今だから来れたの、ありがとう」
そう答えるカズラの頬は日向の匂いだ。
「今だから、こうしていられる」
明日は子ども達がそれぞれの車で来る。賑やかなピザ大会、BBQ大会、花火大会、そこに音楽が流れ続けるだろう。今でなければ叶わない大切な時間が始まっている。
「さてと、ごちそうさま、お先にシャワーを浴びてきますよ」
「おつかれさま」
マルチェーがバスルームに消えて、カップに唇をつけたままのカズラはニヤニヤしていた。5月の午後2時、このために少し急いでくれたマルチェーの心配りに、改めて感謝する。


 水音が響いて、バスルームから顔を出したマルチェーは、思わず唇を結んだ。まだ温まってはいないだろうプールの真ん中で、間伸びした鼻歌を歌いながら浮かんでいる、カズラを捉えたのだ。ああ、カズラが今を生きている。水着は着ていたに違いない、それがカズラのvivaceなのだ。力を抜いて上手に浮かんで、水を信じて委ねて、全身で歌っている。この姿を再び見ることができた。自分自身の力で取り戻した夏は、カズラの中にある。その胸にどれほどの傷跡があるのかは見えない。それでもそれを抱えてカズラは生きていくだろう。そんな思いをすべて漏らさないように、マルチェーはただ奥歯に力を入れていた。
 レモネードをプールの縁において、カズラが何か言っている。いや、声を出さずにサインを送ってきている。
「ん??」
もう一度よく見ようとしたとき、カズラはまた水の中へ潜っていってしまった。
マルチェーは、苦笑いしながらキッチンテーブルに肘をついた。


 慣れた感じで火を起こして、ちょうどいい大きさの焚き火を作った。夕方は少し冷えるだろう。今からこうしてぼんやりしていると、良いくらいに温もってくる。何にも考えない。それだけは得意。

「ごめん、ねてた」
そろそろとデッキチェアまでやって来て、焚き火をのぞき込む。カズラは機嫌がいい。泳いでいた辺りはすっかり夕方の色になり、時間はずいぶん経っていた。
「お腹すいたんでしょう、魚焼こうか」
火を扱うとき、マルチェーの瞳に少年の色が浮かぶ。
「いる、いる」
マルチェーの焼き物はどれも美味しい、任せておけば大丈夫だ。
「ワインを選んでくる」
一番好きなオレンジ色の花模様のワンピースで、グラスふたつと、オープナーと、シュナンブランを抱えてくる。さっきから、さらに辺りは暗く静まり、焚き火が明るい生き物のようだ。
 キュルキュルと栓を抜き、フレッシュなアフリカの香りが弾け出る。焚き火に透かしてみると、生き生きとしたキリンやシマウマが駆けてゆく。こうしてゆっくり飲むのも久しぶり。懐かしい記憶が同時に浮かんだ。
「仲良しサバンナ!」
「仲良しサバンナ!」
暗号みたい、2人で笑ってしまう。
今はもうあんなには飲めないなあ、とか。
「少しだけにしましょうね、明日の朝も、子ども達が来る前に少し泳ぐでしょ?」
マルチェーに考えていることを先に言われて、カズラは勢いづく。
「一緒に泳ごう、少し沖まで」
「5時くらいから?」
マルチェーも勢いよく応える。
「誰にも見られないわね」
海からの風を受けながらカズラは言った。

 明日はそもそもなんの記念日だっけ?何かを願った日だったかも。そして想いは叶うという日。いつか言っていたように、今夜は星の下で横になろう。夢に溶ける前に、流れ星を見つけよう。お願いをするのではなくて、感謝を告げるために。

 

 

 

 この物語のラストシーンは、星の瞬きさえ聞こえそうな星空から始まる。遠く虫の声と波の繰り返す音。静かなプライベートビーチには、もはやいつとは知れない時間が流れて続けている。息を潜めた二人は海辺のあらゆるものとひとつになってゆくように溶け始めていた。と、そのとき、画面が太陽の強さの光に飲み込まれる。続いて昼間途切れたところからあの明るい曲が始まり、プールでカズラが何か言っていたあのシーンがリプレイされて、エンドロールになる、、、。でも実は何も終わっていないのではないか、余韻が後を引く。
立夏」は穏やかな懐かしい色合いの物語のまま終わるはずだった。氷見野ハオによって「コードネーム」というサブタイトルが選ばれたあたりから、秘密めいた空気が流れ始め、あらぬ深読みがストーリーを混濁させてゆく。具体的な何かがあったかどうかはわからない。しかしそれよりも、何層にかガードされた登場人物の身元や隠された関係性が、どうも怪しくなってくる。何もはっきりとは語られていない、危うく闇を見てしまうかもしれないが何もないかもしれない。何か信じ切れない閉じられた物語の、その嘘みたいな青空の下に「ぷかぶき」のメロディは流れ込んでくる。
 あどけない初恋を描いただけの曲。女の子の方が少し積極的であるにしても、この夏休みのうちに恋人ができるかどうかが重大問題、という可愛らしい小さな曲だった。そしてそれ以上の何かが起きてしまうところまでは預かり知らぬことだったのだ。だがむしろ、この曲の明るさと乾いた無責任さ子供っぽい残酷さによって、物語の方が救われていると言えるのではないか。
 プールサイドで発した言葉は果たして何だったのだろう。真実は、直接は関係ないはずのメロディが持って行ってしまったかもしれない。

 

f:id:higotoni510:20230404183224j:image文・イラスト Aruzak-Nezon

 

「ぷかぶき~背泳ぎ+デッキブラシ~」
 詞 Aruzak-Nezon

二人だけ 貸切りプール
雨の降り注ぐ水面(みなも)
背泳ぎしながら
Ah 歌ってる

濡れたシャツ デッキブラシ
あいつ ご機嫌な素振り
ふざけてばかりね
ねえ 泳がないの?

言葉 摩り替えながら
スリリングな空間
Uh 瞳(ひとみ)合わせたままで
走ってく時間

打ち明けてくれる弱さも
無防備な仕草も
時間を止めるマジック
気付かない振りで居て

ずっとこのままで居られる様に
魔法を解いてしまう言葉
水底(みなぞこ)に隠せ
見えなくなるまで
バタアシ バタアシ
夏が終わるまで

 

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 この詞は、80年代を代表するアイドルシンガーを、あまりにも好き過ぎてその「らしさ」や「ぽさ」だけを集めてパッチワークにしたような、私的な宝物を作りたくて書いたものだ。特徴的な語尾や抑揚、無限の表現力を入れられるだけ入れたらどんなに可愛いだろう、という欲望の塊だ。これが曲らしきものとして口から耳へと流れたのは20年ほども前の初夏だった。それからずっと、はっきりした形のないハミングのような秘密の楽しみとして漂っていた。
 氷見野ハオはそれらを充分に受け止めながらも、曲として破綻しないように調整を繰り返している。純粋な夢からできるこの曲が、その光ゆえにストーリーに暗く影を落とすことで、この「立夏」の背景は甘くなりすぎることなく、深みを増すだろう。今も慎重に進められている仕上がりを、待っているのは私だけでない。木漏れ日のように様々な顔を見せる物語と一体になるため、曲の方も自身の完成を待ち望んでいるのだ。


 

ぷかぶき

作詞: aruzak-nezon + 氷見野ハオ
作曲: 氷見野ハオ + aruzak-nezon


二人だけ 貸切りプール
雨の降り注ぐ水面
背泳ぎしながら Ah 歌ってる
濡れたシャツ デッキブラシ
あいつ ご機嫌な素振り
ふざけてばかりで
ねえ 泳がないの?

走ってゆく時間 ずっと このままで
解けてしまう魔法は 底に隠して
バタアシ バタアシ バタアシ
見えなくなるまで
気付かない振りで居て

二人だけ 貸切りプール
雨の降り注ぐ水面
背泳ぎしながら Ah 歌ってる
濡れたシャツ デッキブラシ
あいつ ご機嫌な素振り
ふざけてばかりで
ねえ 泳がないの?

走ってゆく時間 ずっと このままで
解けてしまう魔法は 底に隠して
バタアシ バタアシ バタアシ
見えなくなるまで
気付かない振りで居て

打ち明けてくれる弱さも
無防備な仕草も

走ってゆく時間 ずっと このままで
解けてしまう魔法は 底に隠して
バタアシ バタアシ バタアシ
見えなくなるまで
…夏が終わる時まで

 

【ぷかぶき(晩夏編)/氷見野ハオ 2023.8〜 はこちら  ↓↓ ↓】

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