月毎よむよむ

月毎の、お話と絵本

11月 帽子

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「帽子」   文/夏萩しま 表紙/Aruzak-Nezon

 

 

これがいんじゃない?
ギョロリとした眼で凄まれた。有無を言わさないトーンで笑顔を作っている、その口から一本だけ長い前歯が見えた。細長い身体は樹のように硬く枯れかかっていて、山にばかり入っていてなかなか地上に降りてこないというその店主は、もはや樹木と化していて人よりも長く生きていそうだ。あるいは人間ではない知恵を持った野鳥、魔界の住人かも。
 勧められた帽子を両手に持ってみた。柔らかいフェルト生地でひとまわり小さい女性用のような、それこそ柔らかいフォルムをしている。色は黒だ。どうしようか迷う。身につけるものは黒以外と決めていた。猫も杓子も黒い服、黒い鞄、黒い靴、黒いマスクに黒い帽子、全くこの国の人は右へ倣えで安心する民族だ。自分に似合うものを選んではいけないと思っているように服に選ばれている。その仲間に入りたくなくて黒いものはひとつも持っていない。喪服の一揃いだけは一応あるが全く着る機会がない。いつもは季節や天気に合わせてその日の自分の体調や気分に合うものを選ぶ。それは楽しい時間だ。出かける先の景色や建物のことも考える。その日に会う人がいつも着ている雰囲気と、被らないように考えたりもする。持っているものは少ないが、組み合わせるのは、面白い。靴も服に合わせて作ってもらう。職人さんもどんな提案をしても驚かないで、面白がってこの世にひとつの靴を作ってくれる。

 さて、黒だ。自分がここへ来たのは、偶然から偶然が重なってこの店の2階へ住むことになったからだ。これからもこの店主とは付き合うことになる、そして、ここに来ることで自分の暮らしが大きく変わることになるのだ。それならば、黒い帽子のひとつくらい変えてみても良いかもしれない。頑なになるほどの幼児性を大事に抱えているのも恥ずかしい気がしてきた。頭に乗せて鏡を見る。今までのふわふわと浮いていたような印象が、黒い帽子できゅっと締まったような気がする。なるほど、これまでの自分のままで少しだけなら挑戦できるのだ。ここへ来たときから少し期待があったのだが、あっけなく自分のイメージを変えられたことが愉快だった。
いくらですか?
聞くと、そんな安くていいのかという値段だったので、ポケットから出してすぐに支払った。帽子を頭の上で色々な角度にしてみたりしているうち、ちょうど気に入ったところがあったので留めた。どうかな?という気持ちで店主を見ると、サバイバルナイフを使って柿を薄く切っては美味そうに食べていた。3つほど実がついたひと枝はどこかで手折ってきたのだろう。今日も山から降りてきたばかりなのかもしれない。とても美味そうに食べているので、この人は枯れてしまってはいなくて結構まだ欲があるようだと思った。そしてすでにこちらにはもう興味はなさそうだった。

 帽子は頭に乗せたまま、それじゃ、と言って店を出た。すぐ前の路地から改めて振り返ってみると、狭い土地に無理やり建てたような二階建ての住宅の一階に、その店の入り口である普通の住宅のドアが付いている。店の名前を書いた板が壁に立てかけてあって、その上方を見上げるとバルコニーに柵があり物干し台があった。今はまだ何もぶら下がってない物干しの向こうのサッシの中に、明日から自分が住むのかと思うと、本当に何もかもが新しくなる気がした。そっと新しい黒い帽子に手をやった。


 帽子は改めてみると、ところどころに穴が空いていてきれいな品ではなかった。それで安かったのか、とまあ納得しながらひっくり返してみると、タグに「極悪人」と書いてある。思わず爆笑してしまった。何を見抜かれたのかあの店主から、自分に極悪人の称号を貰ったのだ。あの店主の鋭そうな風貌を思うとやはりただものではないと確信した。そして自分を変えてくれるこの黒い帽子を改めて気に入った。フェルトなので、シャーペンの先の尖ったところで少し寄せてやると穴は目立たなくなった。いくつかある穴を丁寧に寄せてやるとお気に入りの帽子になって愛着が沸く。自分が黒い帽子を買うとはなんとも不思議な展開だったが、これからのことにワクワクするような気分を感じた。苦笑いともつかない笑みが浮かんでしまう。そう、自分は碌でもないやつで、招かれてあの2階へ匿われるのだ。

 

 店の2階で暮らしている間、誰も訪ねて来なかった。ややこしい訳があって隠れていたのだから有難いことだ。実際には誰か尋ねて来たのかもしれないが、2階までその声が届くことはなかった。1階で時々お客さんを迎える店主がとてつもない力を持っていて、自分のいる場所の護りになってくれているようで心強かった。その力が山深いところで得た神通力のイメージと重なったので、店主のことを密かに仙人様と呼ぶことにした。仙人様は、午後少しの時間を過ごしたら鍵を閉めて帰る。電車に乗って帰るらしいが、どこの街へ帰るのか、山かもしれない。山の祠で眠るのか、ハンモックを下げているのか、想像していただけで聞いてみる機会は無かった。

 

 春先に、次の場所へ移ることになり、饅頭を持って1階へ挨拶に行く。仙人様は組み立て式のチェアに長い体を伸ばしてうたた寝をしていた。これでは商売にならないだろうというくらいに、おおかた商品の無くなった小さい店の中の対角線上に、長い体と長い足を伸ばして胸の上で指を組んでいる。生きているのか死んでいるのかわからないくらい、軽い感じで横たわっているその姿からは、山の中で樹にハンモックを下げている様子が容易に浮かんだ。仙人様もまた次のどこかへ行くのだろう、モノに執着していない悟りの人はいつでも支度ができているらしい。とても身軽な感じで部屋の中央に浮いていた。饅頭と鍵をそっと置いて行こうとしたら、
ああ、どうも
と目を開けている。
お世話になりました、鍵置いときます
頭を下げて顔をあげると、また寝ていた。話すことは何もないし、もう会うこともないのだろうと思うとなおさら何も話すことはない。いつものようにリュックを背負って裏の戸から出るとき、鍵を持っていないのに気づいて、そうか、と少し笑った。いつもの狭い路地を通って小さな柵を閉め店の横に出た。ふとみると、仙人様が立ってカーテン越しにこちらを見ていた。もう一度頭を下げて顔をあげると、もう居なかった。

 

 

 今年もスーパーの平台に柿が並び始めた頃、あの店の近くを通ったので角を曲がってみた。やはり、という感じだった。そこは更地になっていて、とてもとても小さいスペースだった。軽トラが一台止めてあり、それだけで敷地一杯になっていた。仙人様のご加護が消えてしまった場所は、もう自分が来る場所でもなくなっていた。仙人様は電車で山に還られたのだろうか、もう知るよしもない。あの2階家は自分の記憶の中だけにあるようで少し心細くなる。ふと、馴染んだ帽子を頭の上から取って中を確認した。だいぶん薄くなったが「極悪人」の文字がしっかりと目に入った。この帽子を手に入れてから、心がずいぶん自由になったのだった。そんなに酷い悪人にはまだなれてないが、もっと我儘に行きたいところへ行けばいいのだろう。この帽子を確かめると自然と少し勇気が湧くのだ。