月毎よむよむ

月毎の、お話と絵本

11月 鹿

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「鹿」  文/夏萩しま   表紙/Aruzak-Nezon

 


林を抜けるとき、いつのまにか微笑んでいた自分に気づく。舗装道路を避けて林道に入った。シートを少し下げたいつもと変わらないポジション。ヒール&トゥで微調整を効かせながら、ステアリングは軽く。前輪駆動のボディは前のめりに走る気分が性に合う。後輪が弾く小枝のパキッという音や、小石を噛んで滑る小さな変化にも、すべて身体感覚で反応している。ドリフトを繋げて滑空する、小さなスピンを繰り返す、自分と一体化した繊細な1500㎏の合金の動物を、いつもながら心地よく思う。一日だけの小さな旅は往復300㎞くらい。ひとりで車を運転し始めるとすぐに頭が空っぽになった。こうして出かけてくると、自分を改めて自分らしいと感じる。

ウインドウを少し開けると前髪が膨らむ。風の匂いを確かめた。耳の後ろの毛が全て逆立ち肌が泡立ち始める。鼓動が早くなってくる。昼下がりの太陽が蜜になって溶け、木々の重なりでストライプに切り取られる。そしてこれらはすべてが記憶にある、懐かしい景色に移ろう。個々のものは形をなくし、躍動して後ろへ流れてゆく。その中に、走る自分の姿を見た。

野生の心は元から持っていたものだ、取り戻しているのだ、今。街で暮らすうちに忘れていた、この感覚のことだ。かつて自分はこの世界で生きていたのだ。車内へ次々と入り込む林の香りを確かめる。木の葉や、木の実の匂い、微かだが違いがはっきりとわかる。自分は生きものとしてまだ大丈夫だということだ。林の香り、、、その中に、走る自分の姿を見つけたのだ。昔、裸足で走り谷を渡った、私は鹿だった。その根源的な感覚が鮮明に蘇った。弾けるような跳躍力を秘めた四肢、軽やかな爪先、柔らかい耳の毛、濡れたような栗色の瞳、草を喰むとき同時に動く警戒する鼻、早い鼓動。木漏れ日が追いかける。沢を渡る水音が連なる。角に、カシッと当たる荊の棘。キュルーーーン!呼び声が突き抜ける。透明な空気を割って何度も木霊する。果てしなく続く光のシャッフル。全身に感じる地面の起伏を全部拾って、振動する心。

終わることのないイメージと思ったが、林道を抜けて幹線道路に戻った途端あっさりと霧消した。思いとどめようとした時はもう遅く、心のどこかに静かな感情として沈んでいった。


おかえりなさい。
彼女とはもう長く一緒に暮らしていたが、それぞれが時々ひとりで出かける。こうして帰って来ても何も聞かないし、説明もしない。仲が悪いのではなくて、お互いの自分時間を尊重しようと、二人で決めたルールだ。何かいい雰囲気で居てくれると、充実した時間を持てたのだろうと自分のこととして嬉しくなる。時々は話したくなっていろいろと報告することもあるけれど、それが義務ではないということが大切なのだ。でも何か伝わっている、といつも思う。

あら、鹿になってきたの?
笑いながらそばに立って言う。
え?
なぜ?と言いかけたとき、髪の毛に手を伸ばしてきた彼女は、頭から取ったものが小枝であることを 見せると、くるくる回しながら楽しそうにそれを自分の髪にさした。
私は牛になってたのよ
言葉だけをさらさらと流しながら、テーブルにミルクシチューを並べた。
ああ、違う時間を過ごしたのに、少し関連性がある、不思議だ、けど当たり前か
深い意味はあってもなくてもそれは色合わせのようなもので、二人の共通点らしきものがどうしようもなく存在しているということがくすぐったい気分にさせる。林で感じたのとはまた違う種類の、ちょうどいい心地よさを感じるのだ。

 


「栗の恩返し」
詞 Aruzak-Nezon

行きがけに
青いまんまのイガグリ
ひとつ落ちていた
踏んづけないように避けて通った

帰りがけに
茶色くなったイガグリ
たくさん落ちていた
拾って帰ってくださいよ、さあさあ

栗の恩返し?

軽く汗ばむほどの夕映えに
ぱんぱんに膨らんだ栗を
ぱんぱんに鞄にいただいて

ちくちくのイガイガ
中は秋が詰まってて
家に着くまで暖かい