月毎よむよむ

月毎の、お話と絵本

7月 梅雨時計 

 

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「梅雨時計」
 文/夏萩しま   表紙/Aruzak-Nezon

 

 

     1


 梅雨時計が頂天の花を咲かせて、今朝、梅雨が明けた。
タチアオイの前に立つと、一番上の赤い花は同じくらいの背の高さだ。オハヨーと挨拶すると花がちょうどおでこに当たる。
 玄関の戸がカラカラカラと開いた。
「えーとお、お世話になりますう。」
まっすぐで元気そうな足がミニスカートから伸びている。足元のトランクは色とりどりに塗りたくられて、所々キラキラしている。声と同じイメージ、新しい住人だ。カズラさんが出迎えた。
「あら早かったわね、迷わなかった?」
「すぐ着いちゃった、よろしくお願いし
ますう。」
「はいご苦労様、ごはんだけしかしませ
ん。あとは自分でやってね。」
カズラさんは説明しながら案内していった。
「奥から3つ目のドアね。鍵がいるなら
付けるけど?」
「えーとお、他の人は?」
「みんな鍵は付けてないけど、勝手に開
けることもない。」
「じゃ私もそれで。」
だんだん声が近づいて来る、思わず顔を半分出したら見つかってしまった。
「この子、音々。オト・オト。こっちは
 日向葵。ヒュウガ・アオイ、今日から
 家族。」
よろしく、という感じで、ニッと笑ったら、葵も、ニッと笑った。仲良くなれそう。ピンクでキラキラの葵は、冬までミニスカートで過ごして、元気よく笑っている女の子だった。

 

 

 カヲルは、まだ慣れない頃、玄関を開けるなり思わず叫んでいた。
「音々!どした⁉︎」急ぐほど靴紐がとけなくて上がりがまちで引っかかる。
「どもしません〜。」
音々は間伸びした声で答えた。
「半目で転がってて、何?」カヲルの問いに、音々は、ピアノの下で半目で転がったまま「あざらしの…」と言いかけた。
今聞いた言葉をカヲルは繰り返す。
「あざらし?」
「あざらしの、赤ちゃんが、こうして、
キュキュ、とか、言ってたので、こう
かな、と思って。」
音々はのんびりと説明した。
「…」
カヲルは真顔に戻った。力なく靴紐をとく。声は自然とトーンダウンする。
「つまり、このままでと。」
「はい。」音々は、かかとだけを付けた両足を少し上げてみせた。
 近頃はもう、カヲルは反応しない。
「ただいまあー、あーのどかわいた」そのまま台所へ直行する。
「おかえりなさい、カヲル。キュ…」音々はあいかわらず、あざらしの赤ちゃんになり切ろうとしていた。ちょっとうまくなってる。
 台所は少し暗くて涼しい。冷蔵庫の麦茶をガラスコップに注いで、ひんやりとした感触を味わう。外は眩しすぎても、こうした陽の入らないスペースは、夏の間は特別な空間だ。コップを洗う水も心地いい。
 カヲルは自室へ入るとき、そこに居ないかのように音々を半またぎにできるようになった。音々は時折、アウアウとか言いながらまだ工夫をしている。ピアノの下の少し暗いところも、板張りの床がひんやりして気持ちいいのかな、とちょっと思った。

 

 

「アオイってどう書くの?」
葵は庭を見回して適当な石を見つけると、しゃがんで地面に漢字を書いた。
日向葵
「ヒ、マワ、リ?」
「ちがーう、みんなそーゆー。」
いつものことだという風に、曲がった矢印をふたつ書き足して、日と向を入れ替えてみせた。「ヒマワリは、こう。」
「あ、そうだよー、ごめん。」
「いーよいーよ、ややこしいのよ。」
女の子たちは意外とすぐ仲良くなるんだなあ、庭でくっついてキャーキャー笑ってる。
「カオルはどんな字?」
カヲルは書こうともせずに答えた。
「むずかしい画数の多いヤツ、めんどく
さいの、自分でも憶えてない。カタカ
ナでいい。オは下のヲ。」
「私もカタカナでアオイ、てことにしよ
 うかなー。」
「漢字で呼ぶのと、カタカナで呼ぶの
と、性格変わった気がするよ。」
「えーー、そんな?」
女の子たちは直射日光が当たらないように、少しずつ場所をずらしながら話し込んでいた。終わらなさそうな庭の様子が、ちょっとうるさいかな、とガラス戸を閉めたけど、カヲルがはしゃいだ感じなのが珍しいなと思って、音々はまた少し見ていた。

 

 


               2
 


「3人親子、みたいなのねぇ。」ネイルを乾かすために、両手両足の指を持ち上げた姿勢で、開けたドアの向こうの縁側の向こうの陽だまりを、葵は何となく見てた。
 ハーブ摘みをしながら、カズラさんがタンポポ笛を作ってポーポーと吹いたら、音々が出てきた。
「それ教えて!」
ぴょんぴょん跳ねてる。子どもだなあ。
タンポポを一本摘んでおいで。」
言われて小犬みたいに走っていった。長いのをとってきた。花のある方をメダルにしてかけてもらうと、フフ、誇らしげに胸をそらしてるよ。端っこを一節折って笛を作って、口に入れるとすぐポーポーと吹いた。ハーブ摘みを手伝いながら、くたくたによれるまで吹いてた。音々は初めから上手。
 ピーーッ、と高く響かせながら桐乃さんがやってきた。カラスノエンドウの笛をくわえタバコみたいにして、器用に話しかけてる。何訛りなのかわからないけど。
「ナニヲヤゥテマスカ?」
「桐乃さんは何を吹いてるの⁉︎」
音々は尊敬の目で見つめてる。やっぱり子どもだ。桐乃さんは口の端で笑って、は?ウィンクした?音々はしっぽを振って付いていくし。しばらくすると、草むらの中からいくつもの笛が聞こえてきた。桐乃さんと音々はそれぞれ鬼のキバみたいに2本ずつ、カラスノエンドウの鞘を口にさしてる。しかも笑顔のままで四重奏をしながら歩いてくる。バグパイプじゃん。音々はこっちも初めから上手に吹く。二人は西の端にしゃがんで何か話してるみたいだった。

 


 カズラさんが植え込みの中を通るときの、庭下駄のカランカランが聞こえている。少し止まったり、しゃがんだりしてるのがわかる。
 きっとああしているのが好きなんだろうな、と思って声をかけずにおく。今日も暑くなりそうなので、あまり長い時間は外にいないほうがいいと、ちょっと気にかけている。縁側に用意した水筒には氷と麦茶が入ってるだろうし、お気に入りの麦わら帽子も被っているだろうけど。
 空を見たり、目を閉じて光を浴びたり、何も考えない時間をわざと作っているのかも。足の甲に鼻緒のラインで日焼けしたのを、嬉しそうに見せたりするカズラさん。落ちてきたノウゼンカヅラの花をひとつ拾って、不思議そうにしばらく手にのせていた。

 暗い廊下のピアノの下では、音々が長くなっている。やはり床が冷たくて気持ちいいのだろうか、うっすら汗を浮かべたまま、すやすや眠っている。お腹が熱すぎる仔犬みたいだな、と思う。夢を見ているらしく、笑った口のまま時々うぐうぐと言っている。
 いつか西側のあの裏口が開いて、風が勢いよく通り抜ける。その風と一緒に元気いっぱいの犬が駆け込んできて、音々を押し倒す。そんな夢を見ているのかもしれない。その瞬間に音々がどんな顔をするか、カヲルは思い浮かべていた。

 


 桐乃さんが来る日って、食材を配達してくれる日みたい。カズラさんは新鮮な魚で、ヅケ丼、カルパッチョ、魚介のパスタとか作ることが多い。次の日からは、煮魚や唐揚げ、仕込んでおいたマリネや西行漬けの焼いたやつ、と順番に食材を使っていく。次の週からは、漬け込んでおいた肉で、豚バラ煮込み、甘辛ミンチ麺とか、肉料理が多くなる。そしてまた桐乃さんが来て、とだいたいこんな感じ。
 カズラさんのごはんは、シンプルな一品ごはんか、ワンプレート。具だくさんの野菜サラダだけということもある。でも、揚げたり、蒸したり、炒めたりしたのが混じってて、割と飽きない。屋台のメニューみたいなんだよね。
 できたてを「さあ早く!生きてるうちに食べてよ!」とか、台所にいるときのカズラさんて、すごい勢いで別人みたい。にしても、生きてるうちにって何⁉︎
 食べたくない日は、ほんとにプレッシャー!カズラさんがいないうちに、みんなを見回して、一番食べそうな嵐(このときはまだ、ランて読むのも知らなかったけど)のお皿に半分くらいお任せしちゃう。初めはギョッとしてたけど、2回目にはもう苦笑いしてお皿を近づけてくれるようになったけどね。(おいしいんだけど。おいしいんだよ、ほんとに。でも多いんだって。)
「そんな爪でよく上手に魚を食べれるねえ。」と感心されるけど、いつも小物のペイントしたり、細かいことは得意。天才なのかもしれないけど、これがフツー。流しの下のあれ、ガスオーブンだよね、使っていいのかな、聞いてみよ。ショコラプディングとか、固焼きのシュークリームとか久しぶりに作りたいと思った。

 

 


     3

 

 そろそろ昼かなあ、とドアを開けると、本日の音々はアゴを鍵盤にのせている。ぬいぐるみのようにくったりと体重をあずけて、なんと、寝ている。転がり落ちないと何の保証があるんだ、ピアノとの信頼関係すごいな。上に葉っぱを山盛りにしたり、白黒白黒の間にビー玉を並べたり、鼻歌をピアノに聞かせたり、話しかけていることさえある。長いことくっついているようだけど、弾いているのは見たことがない。
 台所へ行ってお昼ごはんの様子をのぞくと、下準備を終えたカズラさんが、大鍋を火にかけたところだった。もう少し彫っておくか、と引き返してきたら、さっきよりもずり落ち気味だけどいいくらいに引っかかった格好で、音々は寝ていた。頭の上にクローバーが乗っていた。ピアノの上にも。

 静かに裏口が開いて、外の染色池から引き上げた嵐が現れた。足洗場で手足を洗い、ささっと自室へ入っていった。その様子は、特に避けているのではなく、穏やかな、邪魔しませんよ、という柔らかい心遣いの現れだ。嵐の通ったあとは、藍色の雫が点々とつたっていて、ちょっとユーモラスな模様を描く。
 嵐はいつも色を追い求めている。それは祈るようなひたむきなもので、しっかりした体がそれに耐えているように見える。ほとんど口をきいたことがないけれど、居心地は良い。

 


「嵐は大人なの?」
どうかな、俺は大人かな、音々から見たら。まだまだ迷ってばかりいる、定まらない。大人って言えるのかな。閏年生まれは4年に一才しか成長しないんだというのも、ごまかしみたいな考え方だ。でも、時間の速度が人それぞれ違うこと、見えるものが違うということはあっていい。音々はまだ小さいが、もう深い世界を知っているようだ。
「音々と同い年くらいかな。」
そう言うと妙に納得した顔をした。

 カヲルの部屋から槌をふるうのが聞こえる。頑なに追求している、答えが欲しくて燃えているようだ。木を彫るというより、木の中に埋め込まれた自分を助け出そうとしているような。
 俺は静かに「色が来る」のを待っている。

 


 トーストを食べ終えて、敷紙をとんとんと鳴らしてパンくずを真ん中に集めると、音々は縁側から降りて、はだしのまま西の端の戸袋の下へ持っていきます。
いつだったか桐乃さんが連れてきてくれた、メダカの家族がいるのです。下を少し掘ってカメをおいてくれたので、さっそく、井戸水と水草も入れて、住み心地のよさそうな小さな池になりました。音々は、トーストの日はいつもこうして、メダカにごちそうしてしばらくしゃがんでいます。メダカが向きを急に変えたり、草の中に隠れたりする様子に耳を傾けているようです。
 やがて西側へまわって裏口の足洗場で手足を洗うと、ピアノの前まできて椅子にかけます。あごを鍵盤の上に乗せて目を閉じ、それからは長いことそうしています。
 ある日、メダカのおうちから、すうっと茎が伸びてきて、次々と葉をまるく広げました。いつかの日に申し合わせたように、いっせいに蕾をつけ、清しい蓮の花が咲いたのです。音々は、メダカは大丈夫なのかと心配だったようですが、桐乃さんが来て
「蓮ノ花ガ咲クトハ、アリガタイ。メダカモ喜ンデイマス。ヨイ日ニナリマスヨ。」
と笑ったので、ほっとしたようでした。

 

 

 

     4

 


 髪が伸び過ぎて、とうとうカズラさんにつかまった。
「西日がひどくならないうちにすませましょう。」音々はピアノの椅子の上でまるくなった。頭の中で「くすぐったいのをガマンするときの曲」をループさせて、じっとしているのが賢明だ。
ザクザクザクザク
カズラさんはリズミカルに散髪してゆく。頭の中にそのリズムを採用すると曲が変わってきた。
「木の手入れよりカンタンね、素直だから。」声が右側から前へ回り込んでくる。
「ハイ、目を閉じて。前髪。」正面に立ったのと同時に、閉じていた目と口をさらに、ぎゅっと結ぶ。
ザクザクザクザク
まつげに少し重みがかかる、キョーレツにくすぐったい。ううっ。
「おしまい。」
髪をはたいてもらったのを合図に、裏口へ逃げ出す。ピアノの椅子がくるりと回った。
 足洗場にはもう水が張ってある。少しゆるんだその水の中へ何度も頭から潜るようにして、最後はぶるぶるっと震えた。頭の中には新しい曲がぶるぶる言ってる。そのまま四足歩行で廊下を進んで、飛んできたバスタオルであちこち押さえながらピアノを開いた。さっきの曲が逃げ出さないうちに、早く!ガンガンガンガン叩き出してみた。指は…指は動かなかったけど、ピアノの音は応えてくれた。
「新曲ね。」
音々は、パッと笑顔になった。
「トリミングから帰ってくる犬の曲。いつか本物の犬を飼えるといいな。」
「犬は飼うものじゃなくて一緒に暮らすパートナー。音々にはふさわしいときに、ふさわしい犬が訪ねてくるわ。」
カズラさんは、いつ犬が来るのか知ってるみたいに請け負ってくれた。

 

 

「…じゃないのよ。幹の深いところが空気に触れた瞬間に香るのか確かめたいの。もしそれに形があるなら、その形を正確に取り出して、見たい。やってみないと分からないけど、今、知りたい。」
カヲルの声だ。
カズラさんの答えは落ち着いている。
「切ってみたらわかるのなら、切ってごらんなさい。」
庭を見ると、カヲルがキンモクセイの木の前に立っている。顔は見えない。
小さく息を吸うと、無造作にも見える動きで幹を掴み、ノコギリを当てた。一瞬も逃すまいと、木の中から溢れる何かを見ている。
 やがてキンモクセイの木は倒れ、幹の中程で一本の丸太が切り出された。カズラさんは微笑んでいる。カヲルは丸太を抱えて自室へ戻った。何かを確信している。答えがあったのだろうか。

 呼ばれて、凍り付いていた音々が振り向く。台所に溢れた甘い匂いの中で葵が笑いかけていた。
「大丈夫、カヲル見つけるよ。」と言いながら音々の手をとって、手のひらにクッキーをひとつ置いた。「あ。」茶色と黄色の犬の顔からピンクのベロが出ている。
「みんなに配ってこよ。」甘い匂いを抱えて葵はこっちへ来る。
「はい、嵐にはこれね。」手をとって四角いクッキーをのせた。ほんのりと温かい。
「あ、ありがとう。」
食べ物とは思えないような青紫の、何だろうこれ。6回染めたくらいの色味。音々の方を見ると、くんくんと鼻をつけて、もう一度見てからゆっくりかじり始めた。少し安心したような顔になっていた。

 

 


     5


 
「カズラさん。」
こんな誰もいない日に、よりによって。とにかく、カズラさんを部屋へ運ばなくちゃ。畳の上に寝かせて、クーラーを強くすると、お腹にバスタオルをかけた。それから氷水を作って、首と頭を冷やして、それから、えっと、小さい氷の欠片をカズラさんの口にのせて。そのまま座り込んでしまった。氷はすぐに溶けて唇のすきまから染み込んでいった。どうしよう。
「音々?」カズラさんが少し目を開けた。
「大丈夫です、ここにいますよ。」思わず手を伸ばして、カズラさんの指にのせた。
「ありがとう。」カズラさんはまた目を閉じた。
 いつのまにか、カズラさんの横で眠ってた。まだ夕方になる前だった。起き上がって、部屋が冷え過ぎないように調節してから、カズラさんに小さく声をかけた。
「夕飯は、作ります。」
「お願いします。」
ご飯は鍋で炊いたことがある。あとはいつも食べてるいつものが入った味噌汁なら作れるかな。


 台所から色々な物が順に鳴っていて、そのうち温かい匂いもしてくるのを、聴いていると安心な気持ちになりました。ほどなくして、縁側から桐乃さんが来て障子を静かに開け、
「カズラサン?」膝をついて小さく声をかけました。
「はい。」
「笑ッテイルノ?ナゼ。」
「幸せだからです。」
「ソウデスカ、ヨカッタ。」
いつからか、ヒグラシの声が聞こえていました。
 器の支度を始めた音々が、こちらに気がつきました。
「桐乃さん!」
「カズラサン、モウ大丈夫。」
「ありがとう。…ご飯、食べていきませんか。」
「イタダキマス。イイニオイ。」
音々はくるっと台所へ戻りました。
 冷んやりした中廊下のテーブルで、3杯の炊き込みご飯が並んでいます。冷たい麦茶もおかわりできます。ほっとして落ち着いていただきました。
「ほんとにおいしい。ありがとう、音々。ごちそうだったわよ。」
音々は、ちょっとフクザツな表情です。
「あの、今度は、味噌のありかを教えといて欲しい…。」
「ああ。」台所の方へ目をやって
「土間の涼しいとこに降ろしてる、ぬか漬けのとなりのとなりのカメよ。」と答えました。
「あ、あれかあ。」と言いながら、ぬか漬けのとなりのとなりのカメよ、という響きが音々の頭の中で踊りだす感じになったようでした。
「ゴチソウサマ、音々。」
桐乃さんは、心がどっかに行っている音々に礼儀正しく挨拶をして、ヒグラシの声が降り注ぐ車で帰っていきました。

 

 


 夢を見ました
いつもよりたくさんトーストを焼いて ポットにたっぷりのコーヒーを淹れて
あんまりたくさんなので車にぱんぱんに詰めて、助手席に座れるようにすきまを作って
香ばしい空気に包まれて出かけます
「イッテキマス」
みんなに声をかけて出発
安全運転なのにパンがごろごろする中で座っていました
眩しさが増して、タイヤが砂に食い込まないうちに手前で車を降りて少し歩きます
両手をぶうらぶうらさせながら、ビンロウジュの茂みのところで折れると、急に色彩が溢れ出てきました
蒼、白、黄、緑…
思わず閉じたまぶたに反転して、
紅、黒、紫、赤…
いつのまにか素足の指には砂と水がまとわりついて、懐かしい潮の香りがします
これは私が知ってる…
「ビヴァーチェ
マルチエーの声がした方へ向くと
「カズラサンノ中ニ見エマシタ」
そう言って笑っています
「それは、マルチェーの中にもあるの?」
「同ジデスヨ」
極彩色の光の粒がひとしきり走り去って「マタ来マショウ」と言われたけれど
「いえ、いいわ、もうお腹いっぱい」と答えました
車のところへ戻ると、パンはみんな無くなっていました

 

 


 誰ニトッテモ、今ハ今ダケデス
 過去モ未来モ、物語ノママデイイ
 ソレヲ、話シタリ語ッタリ笑ッタリ
 生キテイル今ヲ、分ケ合ウコトガ
 大切

 マツ、ヨイ、クサ
 静カナ香ガ、今宵
 月ノ光ト出会イマス

 思イ出サナクテモイイ
 思イ出シテモイイ

 胸ポケットニ入レマシタ

 

 



                6

 


 嵐と一緒に、お正月の食器を入れた箱を二階へ運ぶ。ほとんど這い上がるような姿勢で頭に乗せていく感じになる。ギシギシいう階段の一枚ごとのすきまからピアノの端が見えて、上がっていくにつれ端っこが見えなくなって、見切れる頃に音々の服のすそが少し見えた。
 二階というか屋根裏感がすごい。左手の棚へ着くまでに、むき出しの梁を何度もまたいで体をくねくねさせてるのが、障害物競争みたい。嵐は箱の高さは変えずに膝で調節してる。もう笑いそうで耐えれない私と違って、真剣に息をつめて運んでる。
 いろんなものに布切れがかけてあるのはちょっとブキミ。その横の棚の空いてるとこへ箱ごと戻したら任務完了。ふーっと息をついて改めて見回すと、晴れて明るい冷たい空気の中にいた。東の窓も西の窓も閉じてるのにどこからか、すぃーっと風が来る。静かなほこりの匂いがした。
「さっ、これでお正月も終わり。なんか特別な行事のあとって、あっさり日常に戻るカンジ。」
 手近の布切れを怖いもの見たさでめくったら、小ぶりの木のテーブルだった。なんとなくカヲルの立ち姿に似てる気がした。
嵐は嵐で、西側の窓に近づいて外を見てる。裏庭に干してる「自分の仕事」を眺めてた。嵐が染めて乾かしてる布が冬の風にはためいて、嵐がいつも整えてる池がキラキラ光ってて、そこには嵐の大切なものがあって。私は…。急に言う言葉が決まった。
「嵐の色、私の絵の中に欲しい、ダメ?」
 そのときの嵐は、当然というように私の手に触れ、色とりどりのラメがのった指先を見つめ、嵐の蒼く染まったままの指先と並べて見せた。そして、いつもの嵐なら言わないくらいしゃべってくれた。
「毎日毎日、決して褪せないものを、一緒に作ってみたい。それでいいか?」
伝わっていた。急に何かが流れ出した。そしてほんとに何か流れてるよ。
 下から小さく、ピアノのメロディが聞こえる。ここに来て初めて聴く、と思った。嵐も同じ顔をしている。
「音々が弾いてる!」
私たちは手を繋いだまま、そっと階段のすきまをのぞきに行く。音々を見つける前にカズラさんと目が合った。カヲルの部屋のドアは開いてた。縁側には桐乃さんも座ってる。みんな、音々のピアノがやっと音々とひとつになったと理解していた。

 


 縁側で作業着の木くずを払っていると、庭の端から人が入ってきた。両手で抱えた大きな布袋からは、何かの葉っぱが大きくはみ出している。すぐあとからもうひとつ葉っぱのはみ出した布袋、じゃなく、それを抱えた桐乃さんがくる。「こんちは」
男の人は黙ったまま会釈をして、桐乃さんは「コウニチーワ」といつものような挨拶をして、戸袋の下のカメをちょっとのぞいて行った。
二人は西の端まで行って葉っぱを降ろすと、休む間もなく穴を掘り始めた。30分ほどで大きく息を吐いて笑う二人の声がした。穴は3つ。なぜ3つ?葉っぱと葉っぱと、…2人のうちのどちらかが埋められるとか。桐乃さんが裏の水道からホースを伸ばして水を撒き、ふたつの穴に葉っぱと葉っぱがそれぞれ納まった。もうひとつの穴には、さっきの人が、すでに入っている!え、ほんとに?カズラさんの下駄を引っかけて走り寄ると、穴の中の人と目があった。私の質問はありありと顔に書いてあったらしい、先に口を開いた。「ここ泥の溜まりを作るんですよ、小さい」
その人は、嵐と書いてランという名で、ここで染色をやるらしい。そのための植物も持って来たという。作業は夕方までに終わり、その日から家族になった。

 そんなことをぼんやり思い出しながら右手を振っていた。左手には、葵が焼いたクッキーがピンクのキラキラに包まれて、特別な引出物になっていた。器用に細かくアイシングで2人の似顔絵が描かれている。
もう答えを見つけたんだ、すごいな。今日、桐乃さんの車の荷台に、あの葉っぱたちが来たときのように袋に入って載っている。そこへ嵐がもたれている。その横に葵がもたれて、笑いながら手を振り返している。藍色の巻き髪になっていた。わかりやすい。安全運転で、バイバイ。結婚おめでとう。
 まだ早い春の陽射しに山桜がはらはらと舞い、やっぱりピンクでキラキラになって下っていった。

 

 

 


     7



 新緑の季節は過ぎた。
ピアノの下から出てきて膝を抱えると、「大切なことは」とカヲルが話し始めた。
「自分で決めるってこと。大切なものは胸の奥にしっかりと抱いて、生きていくってこと。感じたままでいいんだよ、音々。」そう言って、手の中の彫ったばかりのキンモクセイの花を、台所のテーブルにそっと置いた。流しの上の灯りが小さな影を作った。気づいてないことにした。
ああ、カヲルは出てゆくんだな、なぜかわかった。自分もいつか自分で決めて、ここを出ていけるだろうか。
「じゃあ、明日は青い梅をたくさん摘もう。」
「うん、おやすみ。」
「おやすみ。」
 寝る前、カヲルが言ったことを頭の中で繰り返していた。いつかわかるかもしれないけど、今はまだよくわからない。
「ここにいる間、私の中にカズラさんが流れ込んで私を造ってくれた。私はこれから大人になって、それを自分の力で内から外へと表現していくの。」


 部屋の机の上に木彫の花だけを置いて、他のすべてがすっかり片付いているのを確認した。手紙はやはり書かないことにした。
 桐乃さんの車が来てわいわいと乗り込む。カズラさんが梅の実を採りに行きたいと言ったからみんなでピクニックだ。助手席にコーヒーとおやつ。後ろにカズラさんと私。その後ろに毛布を敷いて、音々が鍵盤ハーモニカをブカブカやっている。
 今にも降りそうな山道を少しずつ登ってゆく。もうすぐ雨の季節になる。タチアオイの一番下の蕾が開きかけていたな。毎年同じだけど毎年違う。去年の今頃、こうしていることを想像しただろうか。来年の今頃、私たちはどうしているだろう。今より少しだけ成長して、今より少しだけ遠くが見えているなら、きっと、今の想像を超えたところにいられるだろう。そうでありたい。ちょっとふわふわする。梅の実をとるときシュッとする香りが弾け出た。強い香りだ。手当たり次第に摘んでゆく。
「今日は帰ったらみんなで梅仕事よ。」元気な声でみんなを見回してカズラさんが笑っている。
 帰りの車の中は、ずっしりと梅の実で重たくなっている。かわりに爽やかな香りが空気を軽くしていた。これから先、たくさんのことを見失っても、カズラさんの記憶がそのままでも、私が忘れることはない。手の中の梅の実は青く固く確かだ。
 車が止まると、みんなが荷物を運んでいくのとは反対側からそっと降りて、そのまま沢づたいに歩いて下っていった。

 


 

  

 

 タチアオイの花が頂きまで満開なのを、ミクネは目の端で確認して、片手で白衣の衿を整えた。梅雨時計と名づけたのはカズラだった、花がだんだん咲いていって梅雨の時間を数える、その思いつきが面白かったのね。おかげでみんなあの花を気にするようになってしまったわ。少量の清潔な食事をのせたトレーを、両手に持ち直して階段を登ってゆく。ギーシギーシと鳴るから上がっていくときお知らせ代わりになってなかなか便利ね。
 天井が斜めになって直射日光が入らない隅に、オレンジ色の花が染め抜かれた藍の布が、天蓋のようにかけられて少し揺れている。トレーを置く小さめのテーブルには、キンモクセイの彫刻がのっている。
「血圧を。」声をかけると
「少し高いかも。」カズラは布団から手を出す。いつもの会話で二人とも微笑んでいる。腕を伸ばして、血圧計がピッと鳴るのを一緒に待った。


 いつもながらきちんとしたごはんでした。食べ終える頃、ちょうどにコーヒーが運ばれてきます、今日はふたつ。
「ありがとう、ミクネ。」
トレーを下げてミクネが降りてゆくと、入れ替わりに、ギーシ、ギーシ、ギーシと桐乃さんが上がってきます。
「大丈夫?」
「大丈夫デス。」
「いつまで大丈夫かしらね。」
「大丈夫デス、テ。上ガッテル、途中デ、話シカケ、ナイデ、クレル?」
息を切らして、いつもの会話で笑います。持ってきた紙袋をがさがさやって、ハード系のパンを取り出すと一切れちぎり、それをまたふたつにして分けてくれました。
「ありがとう、マルチェー。今はいつ?」
「今ハ、…今、デス。」

 唇を結んだ。久しぶりに呼ばれた名に心臓がびくんと鳴り、代わりに止まっていた時間が動き出そうとしている。急いで何か他のことを考えなければ。
「マルチェー、私、思い出しちゃった。」
コーヒーを一口飲む。
「ソウカ、思イ出サナケレバ恋人ニナレタカモシレナイノニ。」さも残念そうに答えたつもりだったが
「ミクネにも同じことを言って怒られたでしょ。」とカズラに睨まれて、正直コーヒーカップの中へ爆笑をぶちまけそうになっている。
「まあでも、頭が戻って来たら、体が動けなくなってるけどね、ははは。」さして深刻ではなさそうなカズラに、伝えたい言葉があった。
「ドチラカデ充分デス。コウシテ一緒ニ居ラレルノダカラ。」
二人とも同じ光景を思い浮かべているのがわかった。
「生きててくれてよかった。」
それから改めて、この穏やかな空気の中でパンとコーヒーが香っている、今がどれだけ貴重であるかを分け合っていた。
「ア、梅雨時計ガ一番上マデ咲イテマシタヨ、今朝。」
「じゃあ、もう夏ね。」


「オンッ、オンッ、オンッ。」
始まりのファンファーレのように大型犬の声が響いた。音々のパートナーのシヴァだ。息もぴったりと、音々の弾くピアノに合わせて歩き、くるくる回ってはまた、
「オンッ、オンッ、オンッ。」と応える。その明るい響きが透き通った空へと抜けてゆく。
 カラカラカラと戸を開ける音がした。葵が娘のナツを連れて来たようだ。ピアノが止み、シヴァの声が西の端から東の端へと跳ねてゆく。
「オンッ、オンッ。」
「オンッ、オンッ。」
後から真似たのは音々の声だ。
「しぃばあー。」
さっそく庭に回ってシヴァを呼ぶ、幼いナツの声が大きく届く。満開のアチアオイの前をひとしきり行ったり来たりするのが聞こえ、音々のピアノがまた響く。賑やかな夏の始まりにふさわしい曲が、二階にも届けられた。
 二人は目を合わせて笑っている。今までとは違う、新しい季節になっていた。

 

 

 

 

f:id:higotoni510:20230520164909j:image文・イラスト Aruzak-Nezon

 

 コミックスの原案として書かれた「梅雨時計」は、まず一軒家の設計をすることから始まった。少し大きめの古い家屋の構造がどうなっているかはっきりと目に浮かぶことが、この作品世界の空気感を伝えるために必要だったからだ。図書館に通い、図面を見様見真似で描きながら、この位置からはこう見える、この人と話すときの背景はここなら気持ちが伝わる、などを確認してからプロットを作り、最後に登場人物を決めた。
 いろいろな人がそれぞれの目線から見ている日常生活と、意識を向けていないこと、話の流れで置いたままになったことが、なぜその部屋なのか、いつの季節の何時ごろなのかということ。そういった小さなことが日常を構成している、大切なことなのだ。繰り返しているだけのようにだが、実は小さな変化を積み重ねていることは日頃あまり見えない。いつかそれは急に溢れたように見えてしまうし、理由がわからないように感じてしまうこともある。けれど、それはその点だけを見ていては理解できないだけで、すべてはゆったりと刺激し合って、遠くまで伝わりながら常に新しく動いている。どんなことも直接でなくても届いているし、知らないうちに受け取っている。ひとつ気づきさえすればどこまでも繋がった世界が、関係性としてたゆたっているのがわかってくる。
 お婆ちゃんの家で子どもの心に柔らかく入ってきた諸々は、大人になってから名前をつけられるものに結晶することもある。が、ほとんどはいつのまにか自分の中にあって時々その気配を示すだけだ。そこで過ごした時間が今も体のどこかで続いていて、時折り存在感を持って底から支えているのをはっきりと感じるときがある。縁側で温もった木に座り足の裏に感じた石の上の砂粒の感触、それを知っているだけで自分の一部になっている何かを信じていられるのと同じように。
 音々が弾くピアノが伝える小さな振動のようなものを、家の中にいて少しだけ感じ合う人たちが家族であり、そのことによって新しい展開が交換される場が家なのだ。この作品は、生きている家が眺めていた静かな物語のように見える。誰もが目の前のことに一生懸命になっている姿を、ゆったりと長い視線で受け止めるもうひとつの大きな意識に包まれた物語なのだ。

 

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