月毎よむよむ

月毎の、お話と絵本

3月 ラッキーフード

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「ラッキーフード」
文/夏萩しま
表紙/Aruzak-Nezon

月曜日はいつも頭が空っぽだ。目が覚めてから何も思い浮かばないし、考えるきっかけがない。それほどに何もない週の始まりは、コーヒーを淹れるのさえ忘れてぼんやりしている。果たして先週何をしていたのか、昨日は?少々背筋が寒くなるような気分に包まれる、ということは、今日が月曜日だからだ。カレンダーを見たところで、今日がどこなのかわからないので同じことだ。
今日は月曜日。
それだけが確かな区切りで、多分今日は月曜日なんだろうと思う。
月曜日は、今週の占いを見て、朝の飲み物を決めるのだった。優柔不断だが、体の声を聞くなどという繊細なことは苦手なのだ。ラッキーフードは、コーヒーだ。コスタリカを常備している。湯を沸かし始める。
コンパクトなテーブルと椅子をベランダに寄せて、占いの続きを見る。ラッキーフードは、コーヒーと、ピーマンだ。朝のうちに買い物に行ってピーマンを仕入れてこよう。沸騰した湯を中挽きの粉に落としながら、考えなくても自然にできているということが不思議に思える。コーヒーは申し分ない。ソーサーとカップを持ってテーブルに向かって歩く。明るい日差しが足元まで来る。支度をしたら出かけよう。
コーヒーを置いて腰掛けると、外の音が壁沿いに這い上がってくるように空に抜けてゆく。この路地は活気がある。いろんな音が渦巻いて下から上へみんな登っていくのだ。コーヒーは温かいうちに飲み終えて、唇に少し香りが残る。朝からいい気分になる、とても。
春先は気温変化が気まぐれで、着るものか、持つものが、必ず多くなってしまうので面倒なのだが、それ以上にこの季節特有の、冷たくて明るい少し湿った空気感も実は好きなのだ。決して繊細なことではない、本能的に反応してしまうような図太い欲望だ。見逃したくないと思う、その中に居たいと思う、子どものわがままのようなものかもしれない。
コーヒーカップはそのままにして、セーターに軽いジャケット、マフラーを短く巻いてドアを出る。路面の雨はもう乾いていたから、白っぽい色の方の革靴を鳴らして出かける。素材の違うものがカツカツと当たりどちらからともなく音が響く、この不思議な現象を誰か横で説明してくれたらいいのに、と思いながら。軽く、膝を伸ばして、さもさりげなく、歩く。歩く先はマーケットだ。この時間ではあまり物は残っていないだろう。そもそも、月曜日は前日が市場の休みで、開いている店も品揃えも少ない。まあでも、大量に仕入れに行く食堂や大家族の人なら行かないだろうが、こちらはのんびりと1人でいるのだ、問題ない。むしろ空いていて買い物しやすい。なんせ、ピーマンだけを買いに行くのだ。
商品を覗いて回っているうちに、チーズや卵も少なくなっていたなあ、と思い出した。口の中にコーヒーの残り香と、なぜかたっぷりの生クリームの味がする。クリームもあったらいいなぁ、と思い始める。
レジの方へ向かい始めて、おっと!ピーマン、と思い出して曲がり直す。先月ここの先の魚屋で、シャコが大量に売り出されていたのが幻のように浮かんできた。あのときは、欲しかったのだが他のものを優先してしまった。なぜ買わなかったのかずっと気にしていた。あれから何度か通りかかったが出会うことはなかった。時代のせいか流行のせいか、政治的なことなのか、あれも幻の魚介だなあ、と思いつつピーマンのために曲がった道を進んでいく。ずいぶんくねくねと歩いてしまったが、あの先にピーマンがある。
ふとあのときの魚屋を見ると、透明な生き物がわちゃわちゃと動いている。今にも逃げ出さんばかりに、きらきらと生命力を撒き散らして輝いている。あれは、懐かしい、シャコだ!ずっと食べたかった新鮮なシャコへとまっすぐに進むと、本当にそこにあった。今回は迷わずひとザル注文する。声の高いがっしりした店員が手際よく分厚いビニル袋に移し、真新しい値段シールを貼って渡してくれた。新鮮なものを新鮮なうちに手渡されて、とても気分がいい。早速帰って酒蒸しだ。
今日の占いはいい導きをしてくれた、そうだった、ピーマン。もう一回りして全部買って帰途に着く。腕の中で、まだわちゃわちゃと騒いでいるシャコに少なからぬときめきを重ねながら、潮の残り香と歩いている自分はすっかり上の空だ。無事に帰れて何より。およそ寒さも感じることなく買い物をして帰り、買ってきたものを台所に並べる。
ラッキーフードのピーマン1個と、
卵6個、チェダーチーズ400グラム、生クリーム1本、シャコ300グラム。ずいぶん広がったなぁ、という感想と共に調理にかかる。
こうして占いに沿って、月曜日はいつも気分良く過ぎてゆくのだ。
自分で選ばないということから始まって次々と良いものに出会ってゆく。時々は残念なこともあるが、自分で選んでないから仕方ない、腹は立たない。とはいえ、何かしら選択はしているから、充分自分の好みは入っているだろう。こうして、企んでいないようで割と凝っているような行動をしながら、あの人にいつか出会えたらいいなと思って暮らしている。ラッキーフードから始まって、あの人に巡り会えたらきっと、良いことが待っていると思う。そう思うことが何かほんわりとさせる。でも毎日それではダメなので、月曜以外は記憶がなくなるくらい働く。あの人に初めて出会った月曜日の午前だけは、占いに任せることにして。