月毎よむよむ

月毎の、お話と絵本

8月 景色

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「景色」  文・表紙 夏萩しま

 

 タオルケットにくるまったまま薄暗い階段を降りるとき、見えない足元で泳いでいるように不安定だった。ふらふらしながら足の裏に冷たい板を探す。そろそろと降りると、半分ほどきたときやっと襖の向こうに明るい畳が見えた。
 ゆうべは、もう終わっていた。永遠に続くかと思った苦しみだったが、いつのまにか眠りに落ちそのあとずいぶん眠ったらしい。なんと今、昼過ぎのようだ。何はともあれ死ぬほどの苦しみで死ぬことはなく、案外丈夫なハートを持っていて良かったなと、他人事みたいに眠れた自分を労る気持ちになった。

 八畳の間から墨を擦っている爽やかな香りがしてくる。師匠が毎日やっている連綿の独習、なかなか上手くいかないらしくそれが面白いのだそうだ。年寄りの考えることはわからない。
「おはようございます」
と挨拶すると、ふと気持ちが途切れたらしく、
「おはよう」
と言って習字道具を片付け始めた。ちょっと間が悪かったかなと遠慮していると、すっと縁側へ移動してこちらへ向かって正座している。
「今日は棋譜並べをご覧なさい」
促されて、タオルケットの裾を巻き付けながら少し離れ気味に碁盤の向かいに座った。キフナラベとは?何だ、少し興味が湧いた。
「お前はなかなか筋が良い」
と、おだてられ覚えるともなくこうして時々座って師匠の話を聞いている。今まで初級編の石取りのようなのを少し教わったくらいで、まだまだ知らないことばかりだ。黙っていると次々と石を並べ始めた。

黒、白、黒、白、黒、白、黒、白、黒、、

はっきり言ってどこを見ていいのかわからない、順番に石を見ているだけだ。それが伝わったのか
「景色を、ご覧なさい」
と言われた。
「景色?、、、どこの」
「もう一度最初からご覧なさい」
と言って石をみんな寄せてしまうと石を置いた。

黒、

「どうですか?」
「どうって、黒がここに」

白、

「これではどうですか?」
「えっと、白がここに」
「景色はどうなりましたか?」
「景色?どうって」

黒、白、黒、白、黒、白、

心持ち顎を引いて目を細め、頭を碁盤から遠くなるように据えた。背筋が伸びて碁盤全体がぼんやりと視界に入る。あ、言葉では言い表せられないが、盤上の気配が交互に変わってゆくように見え始めた。理屈ではなく、何となく感じるのは教えられる以前の感覚だ。師匠が言うところの、筋がいいというのはこういう勘のようなことを指しているのだろうか。

黒、白、、、

ひとつ石が増えるたびにそれまであった石の立場やその意味が変化してゆく、ということなのだろうか。こちら側とあちら側と思っていたものが次の石で逆転する、強そうだったはずが途切れそうになる、逃げていたはずが壁を築いている。
一打ごとに変わってゆく、景色とはこのことかな。
 師匠は割と言葉で教えてくれるので理解しやすい、今日も
「固定した立場というのは無い、周りによって変化させられる、景色は常に変わる、長く残された優れた棋譜を並べるとそれがわかる」
と、結んでさっさと石を片づけ始めた。
「はい、ありがとうございました」
うわごとのように一礼して、僕はタオルケットを巻き直した。師匠は、今日の仕事は全部終わったと言わんばかりに、縁側で足を伸ばしてぶらぶら振っている。
真夏の日盛りなのに、汗ひとつ浮かべていない。楽そうに着付けた紗の裾を行儀悪くバタバタさせて
「ふんがーーああっ」
とか言って伸びをしている。全くお転婆なバアさんだ。

 母方の祖母である青柳秀葵(本名は青柳葵子)は、明治の文豪みたいな名前だが、その昔は囲碁界を震撼させた打ち手であり、女流では長くトップの座を務めた棋士だった、らしい。引退してからは、弟子をとるでもなく、この縁側と中庭のある家でのんびりと暮らしている。
 僕がいろんな仕事に就いてはどうも続かず、暮らしに困って転がり込んだのが、この老後のような暮らしだった。まさか自分が囲碁を始めるとは、自分を含め誰も想像していなかった。いや、このバアさんだけは後継者育成のチャンスを狙っていたかもしれない。なんと言っても一流の策士だ、ありそうな話だ。そうかまんまと嵌められたのか、または、観音様だったのか。この道が続いて行くならいつかは感謝することになるのか。

 とにかくこのときの僕は何か閃きがあった。汗を含んだタオルケットを剥ぎ取りながら二階へ駆け上り、新しいシャツとズボンに着替えた。少しばかり確信があった。自分の景色が変わっているという感覚、昨日の撃沈もそのあとの絶望的な夕方も、新しいひとつの白丸で力強く変えられる予感がしていた。ハヅキごとき女ひとりに振り回されてめそめそしている僕ではない。今は一本の道が目の前に開けているのだ、たぶん。
 玄関から出るとすぐ、ちょうど道の向こうを、珍しく浴衣姿のハヅキが歩いてくる。琴の稽古だろうか、柄にもなく風呂敷包を両手で丁寧に抱いている。僕は腹に力を入れてなんでもなさそうに顔を向け、
「よう」
と声をかけた。
「なによ」
といつものように答えたその口調が、少し恥ずかしそうだったのを僕は見逃さなかった。
「目腫れてるわね」
ハヅキが先制してきたときも、う、と内心怯んだが、白丸、白丸と頭の中で念じて、ふーんと笑ってみせることができた。2人の間の空気がしばらく止まった。目を逸らしたら負けだと踏ん張っていたら
「きのう、ごめんなさい」
なんとハヅキの方から謝ってきた。景色が翻った瞬間だった。囲碁をもう少し真面目に習ってもいいかなとこのとき初めて思った。 


 それから本腰が入るまでは更に数年を要して、それでもやり始めれば勢いに乗り、本因坊リーグに進めるようにまでなっていた。自分としては飄々とマイペースでいるつもりなので、ハヅキの尻に敷かれていると思われるのは納得いかない。世話になったということであれば、やはり師匠のおかげとインタビューでは答えといた方がいいだろうな。あの縁側には今も時々通っている。今だに初級のようなことばかりやっているが、案外そういうのが大切なのだと思うようになってきた。同じようなのだが見る目が違ってくるとその中に違う景色が見え始める。青柳秀葵の七光などと呼ぶ人はいない、実力のみの世界だ、それもありがたい。日々自分流の一手を打ち続けたい、新しい景色を作り出していきたい、とこの頃は明確に思うようになった。師匠は相変わらず元気で、
「お前はなかなか筋が良い」
と言ってくれるのが、まじないのように効いているのかもしれない。