月毎よむよむ

月毎の、お話と絵本

9月 肩車

 

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「肩車」  文・表紙 夏萩しま

 

 

 中指に赤い鼻緒を通して揺らしながら、肩に朗を乗せて石畳を歩く。二度目の夏に初めて祭りに来た朗は、汗ばんだ柔らかい体を父の後ろ頭にぴったりとくっつけて、得意気に遠くまで見渡している。背の高い立冬のさらに上に顔を出していると、少し風が顔に当たるのか時々くすぐったそうに両目を閉じる。二人の初めての子は植物のようにすくすくと大きくなった。父親は立冬に生まれた「りゅうと」。夏生まれの母親が「なつき」。だから、この子が秋に生まれると分かったときから「あき」と読む字を二人して探しながら過ごした。男の子でも女の子でも朗と書いて「あきら」と呼ぶことにしていた。
 鳥居の前で立ち止まり、立冬は夏生と繋いだ手に力を込めた。二人は目が合うと同時に少し笑う。3年前の夏の終わり、この同じ場所にお参りした。そのときのことを思い出していたのだ。

 

 その年は特別な暑さで、いつまでも残暑が厳しかった。浴衣を着ても人の波に押されるとかなり蒸し暑かった。参道の長い列はなかなか進まず、並んだ2人は変な緊張と余り気味の時間の中で、何も話せずにいた。頭ひとつ出ている立冬はゆったりとして見えたが、人にすっかり包まれている夏生はのぼせ気味だった。曖昧な気配でいつ終わるとも知れない行列に運ばれていた。
 そのうちやっと順番が来て神様の前に一段高く石を上がると、すぅーと涼しい空気に変わった。急に気分が楽になった夏生が手を合わせていると、立冬も何かほぐれてしまったのか、なんと声に出して
「夏生さんと結婚できますよに、お願いしまする。」
と元気よく言ってしまったのである。横でそれをはっきり聞いてしまった夏生は、
「え、じゃあプロポーズは無しぃ!?」
と思わず変に響く大声を出してしまった。立冬はきょとんとしていたが、夏生は腹が立つやら恥ずかしいやらいたたまれない気持ちになった。周りから静かな拍手が起きそうになっていて、おかしな空気になってきたのだ。夏生は立冬の手をとり下駄を鳴らしてその場から逃げた。二人はしっかりと手を繋いで参道の外れまで走り続けた。下駄でもけっこう走れるもので、そのまま石灯籠を曲がって境内から外れた。止まるでもなく歩く早さになっていて、梅雨頃には蛍のいた小川のほとりに出ていた。
 夏生は黙って待った。息が上がっていたのが収まるのをではなくて、立冬が口を開くのを。
 白い青海波の地模様の浴衣に濃紺の縞の帯、それだけでも目立つのに、黒い塗りの角下駄に白いちりめんの鼻緒という、いわゆる「決めてきた」立冬だ。夏生は、紺地に白抜きの萩模様、オレンジと紫と深緑の点が鮮やかな浴衣に、薄緑の博多帯、水色と赤の縞柄の鼻緒が涼しげな白い桐下駄。夏生もそろそろ落ち着いた感じになってきた装いだった。
 本当は言葉にしなくても良いくらいの、気持ちは二人とも同じだった。けれども、ここはひとつどんな風に言葉を伝えてくれるのか、一生に一度の気持ちで待っていたい夏生だった。
 ずっと繋いだままだった手に気づき、夏生が少しほどこうとしたそのとき、立冬はもう片方の手で夏生の手を取り、向き直って二人の間で両手を繋いだ。
「さっき、神様にお願いしたんですん。夏生さんと結婚できますよにて。」穏やかに話し始めた立冬に、ええ知ってます、と言いそうになってうぐっと飲み込んだ夏生だ。
「夏生さんとずうーっと一緒に生きていきていきたい、ですね。至らないわたくしのままで、結婚してくださいて言ったら、はい、てお返事して、ください。」
夏生は途中からもう満面の笑顔になって、聞き終わる頃には涙ぐんでいた。立冬は慌てて
「あ、ダメ?え、泣かないで。ごめんなさい、取り消します。」
と、両手をしっかりと繋いだまま心配そうに覗き込んだ。
「取り消さないでよ〜。」
夏生は耐え切れず笑っていたのだ。これこそ立冬だ。立冬の本当の言葉だ。
「ありがとう、はい、謹んでお受けします。」
と、立冬の目を見て言った。
「、、しんで?」ちょっとわからなかったが概ね伝わったらしいから大丈夫でしょう、と判断して礼儀正しい立冬はゆっくりと頭を下げた。夏生はさっと一歩前に出ておでこでおでこを迎えてくっつけた。はっとして目を開けた立冬は、夏生の瞳の中に自分を見つけた。立冬の瞳の奥には夏生が映っていた。
 

 立冬は変わらない。真っ直ぐで温かい。いつでも正直だ。日本語がちょっと怪しいのも、仕事には差し支えないようだし、朗には初めから敬語だ。
「てぃてぃうえ、あれなあに?」
立冬の肩の上から、甘えた声で朗が聞いた。おでこと鼻の上に汗を浮かべた朗の、浴衣は水色の絞りに赤い金魚の模様、それこそ金魚のようなピンクの兵児帯が長すぎてふわふわしている。
「あれは、おみこしです。かみさまがのってらっしゃるんですよ。」
「てぃてぃうえ、もっとあっち。ははうえもきて。」
キラキラした飾りに目を奪われた朗を乗せて、立冬ゆらりと方向を変え、夏生の手を引いてゆっくりと斜めに歩いて行く。
 立冬は少し髭を伸ばしていたが、下から見上げると顎の下にふたつ傷があるのが透けて見える。何年経ってもこうして、一緒に過ごしたことがどこからでも思い出せる二人だった。本当はひとつだけでもいいのだ。深く心に残る大切なことを同じように思い出せる、それがあればいい。これからも変わらないことを信じていられるし、何かあって変わってもそれで不幸にはならない。立冬はずっと夏生の手を繋いで歩いた。それだけで充分だと思う二人だった。
 肩車してもらったことを朗はいくつになっても覚えているだろう。大切にされた記憶、自分を支えてくれた感触、そういう確かなものがあることが豊かさなのだ。暦の上では秋になるがまだまだ暑い日はあって、揃って浴衣で出かけることもあるだろう。日常は穏やかに続いていく。泣いたり怒ったりすることも、下駄で走ることもあるだろう。朗はこの秋、2歳になる。