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月毎の、お話と絵本

1月 海へ〜ミッション03〜

f:id:higotoni510:20231207112551j:image         ミッション03

 

「海へ〜ミッション03〜」          文/夏萩しま    表紙/Aruzak-Nezon

 

カーテンに隠された部屋の一隅でグリーンの丸椅子にお尻を乗せて、片方ずつルーズソックスを膝上まで上げる彼。私はベッドの端にかけて任せている。もう力が入らなくて自分では足が上がらない。微笑んだまま丁寧に両足履かせてくれた彼はというと、何?この何十年かで初めて見る格好、スキンヘッドに革パン、パーカーの中でガムをくちゃくちゃ言わせている。今日のコスプレテーマはなんなの?
「変装で隠そうとしてはダメ、引き算だ」
それであの美しい銀色の巻き髪を剃ってしまったの?確かに別人だけど。
軽めのスポーツサンダルも片方ずつ履かせながら、その眼は最重要任務を遂行する誇りをたたえている。やはり知的で「手練れ」の彼に頼んで正解だと思った。メンズサイズのパーカーを私の頭から被せて、首が支えるのに精一杯という頭を上から引っ張り出してもらうと、肩から背中にずっしりと堪える。久しぶりに着る洋服はさすがに重い。袖に腕を通す前に、自分で左腕の注射針をそっと抜いて枕の下へ隠れるように刺す。予め腰の後ろには肌がけが丸めて置いてあり(少しは時間稼ぎになるだろう)私の体くらいの塊に擬態させてある。掛け布団をかけると、点滴は変わらない速度でゆっくりと落ちていた。
私の頭にフードを被せ、目を覗き込む。さも過食症気味のJKの扮装、中身は私、病み衰えた老婆だ。彼はしわくちゃに微笑んだまま、ちょっといたずらっぽい眼をして
「行こう」
と言って私を立たせた。思った以上にふらついたが、彼が何でもないという顔をして脇から支えてくれたから、気力を出した。孫娘とお揃いの甘々若ジジイ、ありそうなカップルの出来上がり。
「ゆっくり落ち着いて歩こう、その方が目立たない」
さあ。そもそも二人とも早くは歩けない、ご老体なのだ。転ばないようにゆっくりと歩く。ナースセンターの前を通るときことさらゆっくりと歩いて、正面のエレベーターを通り過ぎて、階段を上り、ひとつ上の階からエレベーターで降りる。時間はかかったが、これはなかなか良い考えだった。気付かれてすぐに下へ追いかけられても、逆に少し待って上から降りてくるタイミングを測れる。そのまま降りたのでは追いつかれてしまうのだ。一階の業務出口へ向かい、時間通りに通る給食のカートに一瞬隠れてすぐに逆へ歩く。裏口からではなく、病院の正面自動ドアを堂々と通り、通院してくる人とすれ違うように何気なく外へ出た。場合の案をいくつか用意していたうちのひとつがうまく繋がり、歩くのに時間がかかる私でも充分こなせた。駐車場で車のドアを開けてもらい、後部シートで毛布をかぶる。エンジンはすぐに応えて、静かに動き出す。おお、忠実なるボルボよ。
脱出成功!

余命宣告を受け(いったい何度目?笑)実際、体力も落ちてきた。でもこのまま待っているだけなんて
できない。私には夢があって、時間はない。それはこの状況でしか実現できない、今、今が大切なのだ。
少し飛ばし気味だが安定した走行で、体が疲れることはなかった、懐かしい空が見えてきた。スポーツサンダルを脱ぎ始める。しかしこの衣装、ルーズソックスもパーカーも、このくらいまでやつれて小さく枯れてきたからどうにか様になっていた訳で。全体の姿が現実とはすっかり違って見えるこの変装の上出来なこと。脱ぐのが勿体無いくらい面白くて堪らない。さっき履かせてもらったルーズソックスもぐずぐずと脱いで、貧弱になった両足を準備する。
さあ、海へ歩くのだ。

浜辺のぎりぎりで車を降りて、支えられて一歩踏み出す。砂が素足を包み込むこの感触、本当に来れた。彼も、革パンのジッパーをあげて裾をまくり裸足になっていた。同じ砂浜を歩く。港を目指して逃げ落ちるスパイのように、ゆらゆら揺れてニ人とも足を引きずって進む。すでに何発か食らっている主人公の足取りで、まだ冷たい浜風に遣られながら足の指で固く冷えた砂を掴む。

波打ち際に近いところで毛布を広げて、座った彼の膝に頭を乗せて斜めになる。潮の香りが砂と一緒に直接鼻と口に入る。懐かしい、春まであと少しの海だ。しばらく海を感じているとき、彼も黙って微笑んでいる。満足そうな顔だ。確かにいい仕事をしてくれた。

「ねえ、Sole Mio 覚えてる?」
「覚えてるよ」
「こんな感じと思ってた通り」
「そうだね」
「いい人生だった、ありがとう」
「いい人生だったよ、ありがとう、しかない」

涙が出たりとか、胸が詰まるとか、そういうのではなかった。とても重要なミッションをこうしてまた二人で成し遂げたと、そう感じて高揚していた。そして、充足感の中で目を閉じた。私の魂がどんどん軽くなっていけばいい、と思った。波の音が思いがけず大きく、どどーん、ざらざらざら、と近づいていた。
頭は空っぽになり、もう何も要らなかった。ちゃぷちゃぷと水音が近くなってくる。

「うぅ、さっぶっ、帰ろうか、潮も満ちてきたし」
「もういいの?」
「まだ死にそうに無いし、本当に死んでも困るでしょ?頭寒くない?」
「寒いよ、帰還しますかな、病院でいいの?」
「仕方ないよねえ」

まだ数分しか経ってなかったらしい。でももう本当に良かったのだ。私が風上の乾いた砂の上で体育座りをしている間に、毛布をばさっばさっと大きく振って、砂を落とせるだけ落として、また私を包んで車まで支えてくれる。病院までの帰り道は安全運転で、開けておいたルーフを閉じて潮の香りを少し連れて帰った。

 


〜面会謝絶終わったよー
〜こんちは、まだ生きてた?
〜はい⤵︎残念ながら
〜じゃあまた出かけなくちゃね
〜いやーもういいかな
〜計画だけは作っとこ、楽しいし
〜じゃあ私が余命宣告されたら?
〜海へ連れて行きますよ

力の入らない指でゆっくりゆっくりキーを打ちながら、ちょっと笑って.最後に、またねー、の絵文字を打つ。ベッドに背中をつけて伸びをして、白い天井から白いカーテンへ目をやる。10日前の冒険はまだ鮮明だ。無断外出自体は2時間弱だったようだが、ドクターからは、そういうことでは無いです、とこっぴどく叱られ、ナースからは、動いてはダメですよ、と24時間点滴を連続5日という苦行を科せられ、鬱鬱としていた。なぜか少し良くなっているらしく、それでも老化とのせめぎ合いで、平行線というところ。

あの日、連れて行ってもらってよかった。もう行けないと思うし(案外いけるかもね、わからないわよ)。だけど、あの日に確認できたあの気持ちがあれば、実際に行けなくなっても同じことだと思う。何があっても変わらないということ、本当は確かめなくても大丈夫だったと思うことができたから。

それからまた何年かのうちに、もうこれ最期でもいいかな、と思うときもあったけれど、割としぶとく長生きした。迷惑だよねー。彼もゆっくりと歳をとっていったけど、よく付き合ってくれたな。よくやるよ、ほんとに。でも楽しかったあ。Sole Mioを思い出すとき、若かった頃(⁉︎)とは感じ方が違うとこもあるし、ずっと変わらないものもある。生きてみないとわからない、生きてみたらほんとうにわかった。足の指の間に入る砂と海の水、あの感触がいつでも思い出せる。分け持つ相手がいて、わがままをさせてもらって、感謝できて、もうとてもじゃないけど充分よ。人生には戦友が必要、真剣に生きる人のそばで自分も真剣に生きられるの。いい人生だった、て伝えたい人がいて、もう本当にこれでいい。

 


「いつかサンルーフを開けて」
 詞 Aruzak-Nezon

いつかサンルーフを開けて
光と風に揺られ舞い込む
花びら追いかけながら
君と
手をつないで

いつかムーンルーフを開けて
ビロードの空降りくる
月食の移ろうままに
こうして
ルールルールー
ふたり

いつかスタールーフを開けて
フェイントだらけの流星
見逃さないよう
ゆっくり呼吸

空の世界と繋がる
ミッドシップから

ルー
空と静かに触れ合う
ルー
空と確かに融け合う
ルー
高架橋から光の海へ
ルー
空の世界と繋がる